2019/07/18
原田城/山形県川西町
原田城は、湿地帯に突き出した台地の端を利用した城でした。訪問日は2016年8月5日です。

原田城は台地の東端に突き出した先端部にありました。
そのため、入口は西側にあります。
着いたのが夜明け前だったので、こんな感じです


入口の左脇は、こんな感じで堀切になっています。
原田城が台地先端部を堀切で分断した崖端城だった事がわかります。

堀切に沿いに土塁があり、真っ赤な鳥居が奥まで続いています。
これは城内北西端に祀られた浅加稲荷神社のものです。

内部はこんな感じで、真っ平らな芝生の公園となっています。

ただ、左右(南北)の端には、低いながらも土塁の痕跡が残っています。
こちらは右側(南側)の土塁です。

こちらは反対側(北側)の土塁です。

城内の真ん中に朱色の橋が架けられています。
その下は、草でよく見えませんが、大きな堀で分断されています。
細長い城を横一文字に分断しているので、堀切ですね


奥にはさらに広い芝生の平坦地が広がっています。
こうして見ると、堀切を知らない人にはただの公園です。
城キチでも、言われなければ城跡だとは確信出来ないと思います。

城の付け根の南側には、かなり大きな池があります。
この東側は一段高くなっており、ハーブ園となっています。
航空写真では、ハーブ園の先や北側にも田んぼが広がっています。
原田城は、三方を湿地帯に囲まれていたようです。
◆歴史◆
伊達家臣・原田氏の城でした
天文の乱後、伊達晴宗が伊達郡から米沢に本拠地を移しました。
この時に原田美濃介により築かれたと伝わります。
それ以来、1591年に牡鹿郡大瓜に移るまで、原田氏が居城としました。
原田氏は原田宗時が1593年、朝鮮で風土病により跡継ぎ無く没しました。
この時に桑折宗長の末子が原田家の名跡を継ぎ、原田宗資と名乗りました。
原田宗資の子が原田甲斐で、1671年に伊達騒動を起こして断絶しました。
所在地:山形県東置賜郡川西町上小松(置賜公園)
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