2019/07/17
小松城/山形県川西町
小松城も平城でしたが、色々残っています。訪問日は2016年8月5日です。

城跡の前の道沿いに、人の背よりも高い土塁があります。

その土塁の開口部です。
少しずつ低くなり、ここを入口にした感じですが、門跡かもしれません。
奥には櫓台らしき部分も見られます。

入口の両脇にあるモノです。
小松城跡と書かれた表札になっています。

入口から見た城内です。
城内というよりも、グラウンドといった雰囲気です。
実はココ、中学校の跡地でもあります。
内部はその時に破壊され、まっ平にされました。
現状は、大先輩方の憩いの場となっています。
朝6時だったので、まだお出ましではありませんでした。

奥の土塁です。
手前のも立派でしたが、奥のはその何倍も立派です。
これだけで、ここが只者の城ではなかったことが想像できます。

その大きな土塁も、真ん中が開いています。

開口部の奥にあるのが新山神社です。
ということで、この開口部は虎口のようです。

神社と土塁の間は、少しだけ窪んでいます。
どうやらここは堀跡のようです。
◆歴史◆
応永年間(1384-1428)に船山因幡守により築かれたと伝わります。
船山因幡守は長井広房の重臣だったそうです。
伊達宗遠が置賜郡を侵攻した時の長井氏の当主が?でしたが・・・
こうやって1つ1つの城跡を調べると出てくるものなんですね!
名前がわかると、色々出て来ます。
その伊達宗遠が置賜郡へ侵攻を始めたのが1380年。
そして、子の伊達政宗が長井氏を滅ぼしたのが1385年の出来事です。
ということで、築城時期は1384年から1385年にかけてという事ですね。
伊達家臣・大町貞継の城となりました。
伊達政宗が置賜郡を攻略後、小松城は大町貞継が城主となりました。
以後、7代にわたって大町氏が城主を務めました。
桑折氏が城主となりました。
桑折氏は伊達郡桑折を本貫地とする、伊達家の一門です。
1479年に伊達成宗の命により、桑折宗義が寒河江氏を攻めています。
この頃までには小松城の城主となっていたようです。
伊達成宗は1467年から1472年にかけて、国分氏を攻めました。
この時、寒河江氏が国分氏を支援しました。
そのため、国分氏を屈服させた後、遺恨のある寒河江氏を攻めたようです。
しかし、1480年に桑折宗義が寒河江氏の騙し討ちに遭い、自害しています。
戦国時代には、桑折景長が活躍しました。
1543年に中野宗時とともに伊達稙宗を幽閉し、天文の乱が勃発しました。
伊達晴宗方の主力として活躍しています。
この時の活躍により、守護不輸権などの特権を得ました。
守護不輸権とは、租税の一部または全ての免除です。
・・・ほぼ独立勢力扱いなんですね!
天文の乱後、牧野久仲が城主となりました。
1553年、天文の乱後の所領再編により、桑折景長が刈田郡へ移りました。
伊達晴宗は勝つため、自分でも把握出来ない位に多くの約束をしていました。
その約束を1つ1つ整理した結果と思われます。
代わって、小松城は牧野久仲が城主となりました。
牧野久仲は中野宗時の次男で、守護代の名家・牧野家を継いだ人物です。
父同様、天文の乱では伊達晴宗方の主力として活躍しました。
伊達晴宗が当主となると、牧野久仲は父とともに権勢を振るいました。
1570年、再び桑折氏が城主となりました。
1564年に伊達晴宗が隠居し、伊達輝宗が伊達家の当主となりました。
しかし、伊達晴宗が実権を持ち続け、中野宗時・牧野久仲も健在でした。
1570年、伊達輝宗は中野宗時に謀反の疑いをかけ、討伐しました。
中野宗時は牧野久仲の小松城に籠りましたが、攻め落とされました。
城を抜け出した中野宗時・牧野久仲父子は、相馬盛胤の元へ逃れました。
尚、この逃避行を助けたとして、小梁川盛宗らが罰せられています。
中野宗時・牧野久仲父子を追放した事で、伊達輝宗が家中を掌握しました。
牧野久仲追放後、桑折景長が再び小松城の城主となりました。
1591年、伊達政宗の岩出山移転に伴い、桑折政長が江刺郡に移りました。
この時に廃城になったと考えられています。
所在地:山形県東置賜郡川西町中小松(新山神社)
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