2019/07/15
高畑城/山形県高畠町
高畑城の跡には小学校があります。訪問日は2016年8月5日です。

城跡へ行くとき、ナビをセットするのに苦労すると思います。
ですが、城跡が学校だったりすると、ナビのセットがとても楽になります。
なので、城跡が学校でなくても、近くの学校を目印にすることがよくあります。
・・・この時はナビ無しのバイクでしたけど

それでも、とてもわかりやすい目印である事には違いありません。

小学校の南西に、一部分だけですが水堀が残っています。
その水堀脇に、高畑城水堀跡の石碑があります。
さり気な~く文化財マークの上に乗っかっています


水堀を外側から撮りました。
コンクリートで固められてはいますが、雰囲気はバッチリです^^
角から撮りましたが、奥の角で堀が曲がっているのが見えます。
この辺は完全に残されているようです。

奥の辺を見ようと、そっち側の角へ移動。
すると・・・すぐ先で行き止まりになっていました

まぁ、この規模の平城で水堀が残っているだけでも奇跡ですけど。

小学校のグラウンドの隅には、土塁の名残のような土盛りが見られます。
尚、往時は堀の形から、別名・鐘ヶ城とも呼ばれていたそうです。
◆歴史◆
平安時代にはすでに原型があったようです。
平安時代の高畠は屋代荘と呼ばれ、摂関藤原氏の荘園でした。
1148年頃、藤原頼長が藤原基衡に対し、大幅な年貢増額を要求しました。
5年以上揉めた結果、1153年に藤原基衡が争議に勝利。
年貢増額は微増に終わり、藤原頼長がとても悔しがったそうです。
その後、藤原秀衡の従兄弟・樋瓜季衡が城を築いたと伝わります。
鎌倉時代に大江氏の領地となりました。
1189年に大江広元が、屋代荘を含む置賜郡の地頭に補任されました。
その後、大江広元の次男が置賜郡の領地を相続しました。
この頃に長井荘という名が現れ、大江広元の次男は長井時広と名乗りました。
(長井荘は長井氏の領地である置賜郡全体を指す別名です)
長井時広は米沢城を築いた人物で、兄の失脚後は大江氏の当主となりました。
長井氏は鎌倉幕府の重鎮として続き、室町時代初期は足利尊氏の側近でした。
1380年、伊達宗遠が高畑城を拠点としました。
伊達宗遠が勢力拡大のため、出羽長井氏を攻めました。
この時に拠点としたのが高畑城でした。
伊達宗遠はこの頃に信夫郡、刈田郡、伊具郡、柴田郡も手に入れています。
鎌倉公方の足利氏満は、周辺勢力に長井氏を助けるよう命じました。
一度は連合軍により伊達軍が撃退されましたが・・・
何度も侵攻する伊達軍に対し、長井氏への援軍は次第に減って行きました。
そして、子の伊達政宗により、1385年に出羽長井氏が滅ぼされました。
以後、1591年の岩出山移封まで、置賜郡は伊達家が支配しました。
尚、初代・伊達政宗は晩年を高畑城で過ごし、同地で没しています。
1591年、蒲生家の城となりました。
葛西大崎一揆の鎮圧後、伊達政宗(独眼竜の方w)は置賜郡を没収されました。
代わって蒲生氏郷が置賜郡の領主となりました。
1598年に蒲生家が左遷され、米沢(置賜郡)が直江兼続の領地に。
1600年の関ヶ原の戦後、上杉景勝が米沢の主となりました。
その後、1664年に上杉家当主が跡継ぎ無く没しました。
本来であれば無嗣断絶ですが、養子を迎える代わりに領地半減となります。
この時に高畑陣屋のある屋代郷が天領となりました。
以後、天領と米沢藩預かりが交互に続きますが・・・
1767年~1830年の間は、織田家も入りました。
この織田家は上野国小幡にいた、織田信雄の子孫です。
1848年に再び米沢藩領となり、そのまま幕末を迎えました。
所在地:山形県東置賜郡高畠町高畠(高畠小学校)
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