2019/06/29
沢辺館/宮城県栗原市
沢辺館は葛西家臣・沢辺氏の城で、河岸段丘の上にありました。訪問日は2017年8月6日です。

沢辺館は公園となっており、城内の道沿いに駐車場があります。
この道はGoogle Mapには載っていませんが、車で通れます。

車道を登ると、道端に鳥居があります。
鳥居の所から真っすぐな階段がありますが、まずはスルー。
駐車場の所はちょっと傾斜がありましたが、ここは真っ平です。

さらに登ると、公園に入る道があります。
上から見ると、曲輪が段になっているのがよくわかります。

右の道を進むと、公園に入ります。
一番高い所なので、ここが主郭と思われます。
写真右端に沢辺館の説明板があります。
ここには城の構造と歴史について書かれています。
南側の地続きの台地とは、元々は2本の堀で隔てられていたそうです。
しかし、小学校建設の際に埋められ、現在では見られないとのこと。
ということで、沢辺館は河岸段丘上の崖端城でした。
構造的には南側の領主が北からの侵攻に備えたように見えます。
ただ、実際にはここを奪われた沢辺氏は、一旦北に移っています。
そのため、川の交通を監視するのが目的だったのかもしれません。

主郭をの奥には、忠魂碑と土塁の痕跡があります。

先端部まで行くと、下の段に下りられるようになっています。

ここから、2段の曲輪が見えます。

段差はこんな感じで、人の背よりも少し低いくらいです。

入口まで引き返し、車道を下ります。
道端には段になっている曲輪が見えます。

最初にスルーした鳥居です。
ここにも上がってみました。

主郭の次に広い曲輪で、奥には小さな石の祠があります。

端には低い土塁の名残が見られました。

駐車場の下からも、城塁に沿って入る所があります。
こうして見ると、だんだんと車道が不自然に見えてきました。
川岸から河岸段丘を上がるため、近世になってから造られたようです。

ここは曲輪というより、城塁に沿った犬走りのようです。

目の前に川が見えます。

途中に、城塁を上がる道がありました。
やはり、車道は近世に通されたものですね。

そのまま犬走りを進むと、下る道がありました。
往時は川岸から城内に通じる道がここにあったようです。

端には虎口もあります


下から見ると、こんな感じです。
虎口の前がキツイ坂道の坂虎口ですね

ここに搦手門があったのかもしれません。
◆歴史◆
葛西家臣・沢辺氏の城でした。
正治年間(1199-1201)に二階堂常信により築かれたと伝わります。
二階堂常信は沢辺姓を名乗り、4代にわたってココを居城としました。
一時期ここが大崎氏領となり、沢辺氏は退去しました。
大崎氏の祖・斯波家兼が奥州にやって来たのが1354年です。
この年代なら何とかギリギリ5代目ぐらいにはなりそうな感じです

以後、沢辺氏は磐井郡の霞館のち、同郡内の蒲沢館に移りました。
磐井郡は岩手県最南端で、現在の一関市や平泉町の辺りです。
1576年、沢辺氏が復帰しました。
1573年に葛西晴信と大崎義隆が戦い、葛西軍が大勝しました。
それにより、大崎家臣の斐ノ城主・田野崎玄蕃が退きました。
斐ノ城は沢辺館の東北東約4kmの所にあった山城です。
再び葛西領になると、沢辺重光が沢辺館の城主となりました。
1591年、小野寺道行が城主となりました。
奥州仕置きにより葛西氏は領地を没収されました。
その後、木村吉清が領主となった後、伊達政宗領となりました。
沢辺新左衛門は伊達政宗にニ迫黒瀬村3貫239文で召し抱えられました。
その弟・藤兵衛は帰農して沢辺村内に住み、沢姓に改めたそうです。
新しい領主に気を遣っての事かもしれません。
沢辺館には、葛西旧臣の小野寺道行が入りました。
小野寺氏は宝永15年まで4代にわたって沢辺館に居たそうですが・・・
「宝永」は8年で終わってます

宝永5年だとすると1708年で約100年なので、計算が合いそうです。
その後、小野寺氏は石越村の砂子館へ移っています。
所在地:宮城県栗原市金成沢辺館下 GPSログダウンロードページ
宮城県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント