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伊治城/宮城県栗原市

伊治城は、奈良時代の朝廷が東北地方を統治するための拠点でした。
訪問日は2017年8月6日です。

伊治城【1】

国道4号線脇に、伊治城についての説明板があります。
この辺りだけ民家が無く、史跡保存のため残されているようです。
説明板の背後にブルーシートがあり、発掘調査をしていました。

伊治城【2】

ただ、この辺りは真っ平なだけで、城跡らしさは感じられません。
埋められているのかもしれませんけど・・・

伊治城【3】

遺構は600メートル程北で見られます。
その目印が、この大きな標柱です。
伊治城外郭北辺ということで、城域の北端のようです。

伊治城【5】

道端に大きな土塁があります。

伊治城【6】

土塁に沿って歩くと、外側が少し凹んで見えます。
かなり規模の大きなお城だったことがうかがわれます。


◆歴史◆

767年、蝦夷統治の拠点として築かれました。

海道を押さえる桃生城に対し、山道を押さえるためと紹介されています。
「海道」「山道」って何だろう?と思いましたが・・・
単純に「海に近い」「海から遠い」という感覚のようです。
当時の状況は、桃生城が774年に蝦夷に奪われています。
その7年前ということで、当時から朝廷への反乱が絶えなかったようです。

伊治城は在地の土豪・道嶋三山により、三旬も経ず完成したそうです。
「三旬」も普段使わない言葉ですが、上旬・中旬・下旬の三つです。
ということで、ひと月も掛からずに築き上げられたという事です。
それだけ事態が切迫していたという事でしょうか。

780年、伊治呰麻呂が反乱を起こしました。

伊治呰麻呂は「これはりの(これはるの)あざまろ」と読みます。
ココを拠点にした、朝廷寄りの蝦夷の長です。
朝廷から778年に外従五位下の官位を授けられ、上治郡大領となっています。
大領は郡の長というイメージだと思います。
当時の東北地方は、朝廷寄りの蝦夷に反抗的な蝦夷討伐をさせていました。
伊治呰麻呂は朝廷寄りで、陸奥按察使の紀広純に従っていました。
しかし、780年に伊治城内で牡鹿郡大領の道嶋大楯と紀広純を殺害。
伊治城を焼き払って兵を率い、多賀城に殺到し焼き払っています。

牡鹿郡大領の道嶋大楯は、蝦夷ではなく坂東から下向していたそうです。
一族には中央貴族で近衛中将まで昇進した者もいたそうで・・・
その事を鼻に掛け、蝦夷の伊治呰麻呂を馬鹿にしていたそうです。
紀広純には我慢して従っていたそうですが、プッツン切れたようです。
以後は蝦夷が一つになって団結し、朝廷に抵抗するようになります。

伊治呰麻呂のその後は消息不明となります。
朝廷は現地の蝦夷ではなく、直属の討伐軍を送るようになります。
そして次第に蝦夷を北に追い、次々に城柵を築きました。
陸奥国がやたらと広いのは、そのためなのだそうです。


所在地:宮城県栗原市築館城生野大堀、城生野唐崎

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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