2019/06/27
伊治城/宮城県栗原市
伊治城は、奈良時代の朝廷が東北地方を統治するための拠点でした。訪問日は2017年8月6日です。

国道4号線脇に、伊治城についての説明板があります。
この辺りだけ民家が無く、史跡保存のため残されているようです。
説明板の背後にブルーシートがあり、発掘調査をしていました。

ただ、この辺りは真っ平なだけで、城跡らしさは感じられません。
埋められているのかもしれませんけど・・・

遺構は600メートル程北で見られます。
その目印が、この大きな標柱です。
伊治城外郭北辺ということで、城域の北端のようです。

道端に大きな土塁があります。

土塁に沿って歩くと、外側が少し凹んで見えます。
かなり規模の大きなお城だったことがうかがわれます。
◆歴史◆
767年、蝦夷統治の拠点として築かれました。
海道を押さえる桃生城に対し、山道を押さえるためと紹介されています。
「海道」「山道」って何だろう?と思いましたが・・・
単純に「海に近い」「海から遠い」という感覚のようです。
当時の状況は、桃生城が774年に蝦夷に奪われています。
その7年前ということで、当時から朝廷への反乱が絶えなかったようです。
伊治城は在地の土豪・道嶋三山により、三旬も経ず完成したそうです。
「三旬」も普段使わない言葉ですが、上旬・中旬・下旬の三つです。
ということで、ひと月も掛からずに築き上げられたという事です。
それだけ事態が切迫していたという事でしょうか。
780年、伊治呰麻呂が反乱を起こしました。
伊治呰麻呂は「これはりの(これはるの)あざまろ」と読みます。
ココを拠点にした、朝廷寄りの蝦夷の長です。
朝廷から778年に外従五位下の官位を授けられ、上治郡大領となっています。
大領は郡の長というイメージだと思います。
当時の東北地方は、朝廷寄りの蝦夷に反抗的な蝦夷討伐をさせていました。
伊治呰麻呂は朝廷寄りで、陸奥按察使の紀広純に従っていました。
しかし、780年に伊治城内で牡鹿郡大領の道嶋大楯と紀広純を殺害。
伊治城を焼き払って兵を率い、多賀城に殺到し焼き払っています。
牡鹿郡大領の道嶋大楯は、蝦夷ではなく坂東から下向していたそうです。
一族には中央貴族で近衛中将まで昇進した者もいたそうで・・・
その事を鼻に掛け、蝦夷の伊治呰麻呂を馬鹿にしていたそうです。
紀広純には我慢して従っていたそうですが、プッツン切れたようです。
以後は蝦夷が一つになって団結し、朝廷に抵抗するようになります。
伊治呰麻呂のその後は消息不明となります。
朝廷は現地の蝦夷ではなく、直属の討伐軍を送るようになります。
そして次第に蝦夷を北に追い、次々に城柵を築きました。
陸奥国がやたらと広いのは、そのためなのだそうです。
所在地:宮城県栗原市築館城生野大堀、城生野唐崎
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