2019/06/25
宮野城/宮城県栗原市
宮野城は葛西一族・宮野氏代々の城と伝わります。訪問日は2017年8月6日です。

宮野城は一迫川が広い平野に流れ出る所にあります。
江戸時代には宮野代官所が置かれ、中奥地方統治の拠点でした。
宮野城跡への西側の入口に、その代官所の跡があります。

代官所跡には小学校があったそうで、そっちの名残はプンプンしますw

代官所跡の目の前から山中に入る道があります。
その入口には「臥牛公園入口」の標柱が立っています。
この狭~い道を車で登ります。

道がどんどん怪しさを増すと、やがて車止めのチェーンが現れます。
ここまでは車で登ってくることが出来ます。
周りの景色に溶け込んでいるので、突っ込まないよう気を付けましょう。

車止めの前はこんな感じで広くなっており、安心して駐車出来ます。

車止めからは徒歩での登城となります。
元は車道のようで、とても歩きやすいです。
車止めから歩くこと1分程で、大きな平面が見えてきました。

その入口に石碑があります。
右側の石碑には宮野神社、宮野重信公之●と彫られています。
写真を拡大して頑張りましたが、最後の一文字が読めませんでした。
そういうの現地で読もうよなんて、正論過ぎて反論出来ません


この石碑の脇に、城址標柱があります


入口があるこの大きな平坦面が、いきなりですが主郭です。
小さなお城だと思っていましたが、なかなか広いです。
さすがは葛西一門のお城です。

真ん中まで来ると、奥に土盛りに乗った石碑が見えます。

これが一番奥の土盛りに乗っかっている石碑達です。
真ん中のは忠魂碑で、手前と奥は何かです。
(*^▽^*)なんて駆け寄って撮るクセによく見ていません


石碑の所が一番奥に見えましたが、その左脇から奥へと道があります。
この石碑が乗っかっている土盛り、実は土塁です。

土塁の向こう側には堀切があり、通路がカギ形に曲がっています。
堀切も兼ねた虎口のようです


堀切の向こう側にも広い曲輪があります。
ここが二郭です。
並び順からすると、本当はこっちから入るのが正解ですね。

城跡は公園として整備されているので、とても見やすいです。
ただし、一歩外側はこんな感じで深い藪に埋もれています。
◆歴史◆
宮野氏の城でした。
平安時代末に、藤原秀衡により築かれたと伝わります。
近くに奥州藤原家臣の残党が立て籠った姫野館があります。
平野部の北端なので、南からの軍勢を迎え撃つのに良さげではあります。
真偽の程は、ご想像にお任せとなります

もっともらしい築城時期は、鎌倉時代となります。
1190年の奥州合戦後、葛西清重に奥州の広い地域が与えられました。
葛西清重の子・重信にこの地を与えられ、宮野氏の祖となりました。
その時期は1250年頃とされます。
以後、1590年の奥州仕置きまで、宮野氏が居城としました。
1591年、葛西氏の旧領は、伊達政宗に与えられました。
宮野氏は伊達政宗に仕え、江戸時代は仙台藩士として続いたそうです。
宮野城の西麓には代官所が置かれ、中奥地方統治の拠点となりました。
所在地:宮城県栗原市築館下宮野館
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