2019/06/23
真坂館/宮城県栗原市
真坂館は狩野氏の本拠とされ、主郭に政岡の墓があります。訪問日は2017年5月6日です。

真坂館へは、龍雲寺から登ります。
このお寺は、江戸時代にココに来た白河氏の菩提寺です。
実はここも曲輪の1つなのだそうです


城跡への案内は無いので、主郭にある政岡の墓を目指します。

その途中、道の脇に小さな平場が設けられています。
ここに、白河氏の前の城主・富塚氏のお墓があります。

およそ5分程階段を登ると、平らな場所に出ます。

主郭の手前にあるココ、絶対に虎口ですね


主郭には、政岡の墓があります。
元々は別の場所にありましたが、昭和のはじめ頃にここに移されました。
「政岡」は江戸時代に流行った浄瑠璃の登場人物で、実名ではありません。
誰がモデルとなったのか、未だに確定していませんが・・・
長くなりそうなので、詳しくは後ほど


主郭は政岡の墓のおかげで綺麗に整備されています。
しかし、平坦面は藪の中にも続いています。

奥まで進むと1メートル程の段差があり、平坦面が続いています。

その奥に、かなり大きな堀切があります

上から見た写真ではよくわかりませんが・・・

こんな感じです




堀切の向こう側が二郭です。
ただ、ここは政岡のお墓以外は整備されていません。
まだまだ城域は広いのですが、これ以上の探索は出来ませんでした。
◆歴史◆
狩野氏の城でした。
築城時期は不明ですが、伊豆を本拠とした狩野氏の城でした。
1189年の奥州合戦の功により、狩野行光に一迫一帯が与えられました。
ただし、すぐにはこちらには移らなかったようで・・・
奥州に移って来たのは、南北朝時代の狩野詮真とされます。
以後、周辺勢力との縁組を重ね、一族を各地に配置しました。
戦国時代はじめ頃には大崎教兼の三男を養子に迎えています。
跡を継いだ狩野刑部少輔は、地名をとって一迫姓を名乗るようになります。
1588年にあった大崎合戦では、氏家吉継が伊達政宗に内通しました。
この時、一迫隆真も氏家吉継と行動をともにしました。
1590年、大崎義隆は奥州仕置により改易されて領地を失いました。
一迫隆真も領地を失い、後に伊達政宗に召し出されて500石を与えられました。
しかし、跡を継ぐ子が無く、一迫氏は断絶しました。
1591年、伊達家臣・富塚氏の城となりました。
初代城主は富塚宗綱です。
富塚宗綱は人取橋の戦などで活躍し、伊達家の宿老を務めました。
その孫・富塚重信は検地総奉行を務め、仙台藩郡村制度を基礎を築きました。
1660年にあった伊達騒動後、奉行職に就いています。
仙台藩でも特に重臣中の重臣でしたが・・・
1717年、富塚重標が領地を没収され、水沢に配流されました。
何が起きたのか知りたかったのですが、ググっても何も出てきませんでした

1718年以降は白河氏の城となりました。
白河氏は戦国時代に宗家を乗っ取った小峰義親の子孫です。
小峰義親は佐竹氏に従っていましたが、1589年に伊達政宗に鞍替えしました。
しかし、伊達政宗の指示で小田原に参陣せず、翌年に領地を失いました。
その後はしばらく流浪の身となり、各地を転々としましたが・・・
1601年に伊達政宗を頼り、仙台藩の客分となっていました。
小峰義親の孫・白河義実から正式に仙台藩の家臣に取り立てられました。
真坂館を与えられたのは白河義実の子・白河宗広です。
以後、明治時代に至るまで、仙台白河家の居城となりました。
白河義実の正室が『政岡』のモデルの一人と考えられています。
主郭にある政岡の墓は、白河義実の正室・高流院のものです。
政岡は江戸時代に流行った歌舞伎『伽羅先代萩』の登場人物です。
『伽羅先代萩』は伊達騒動を描いたもので、政岡は重要な役割を果たします。
伊達騒動は仙台藩主・伊達綱宗の強制隠居に端を発します。
伊達綱宗は金遣いが荒く、仙台藩の財政が一気に破綻しました。
奉行達は諫めましたが聞き入れられず、幕府より隠居を命じられました。
1660年に伊達家を継いだのは、まだ2歳の伊達綱宗の子・亀千代でした。
まだ幼子のため、祖父・伊達忠宗の弟・伊達宗勝が後見人となりました。
伊達宗勝は伊達政宗の十男です。
歌舞伎では、仙台藩乗っ取りを企てた伊達宗勝が幼主の命を狙いました。
その悪事を防いだのが、亀千代の乳母・政岡でした。
政岡は自分の子に亀千代の食べ物の毒見をさせていました。
・・・もう何があったかわかりますよね



ただし、白河義実の実在の子は、無事家督を継いで77歳まで生きています。
所在地:宮城県栗原市一迫真坂字館(龍雲寺) GPSログダウンロードページ
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