2013/08/11
豊島清光館/東京都北区
豊島清光の館は隅田川沿いにあり、現在は清光寺となっています。訪問日は2013年5月5日です。

▲清光寺の入口
清光寺も入り組んだ細い路地の中にあります。周りを走っていると大きなお寺は見えるのですが・・・なかなかここに辿り着けませんでした。

▲清光寺山門
入口から攻め込むと、早速山門が出迎えてくれます。木の色がまだ白く、建て替えられたばかりのようです。

▲清光寺本堂
更に攻め込むと、木の色がまぶしい本堂に辿り着きます。場所は確かにここのはずですが・・・あまりに建物が新し過ぎて、本当にここなのか少し不安になりました。

▲豊島清光坐像の説明板
しかし!本堂の前でウロウロしていると、脇にある小さな説明板を見つけました。その説明板は、豊島清光の坐像についてのものでした。嗚呼、ここで間違いなかったヽ(´ー`)ノ
坐像は本堂にあるそうですが、お願いすれば見せてもらえるのでしょうか?色々ブログを見ましたが、現物を見たという方がおられませんでした。複製が北区飛鳥山博物館に展示されているそうです。
◆歴史◆
豊島氏は秩父氏の一族で、1023年に秩父武常が武蔵国豊島郡に所領を得たことに始まります。その4代目の当主が清光ですが、「清光」は諱であり、本名は「清元」だそうです。・・・ということは、本当は「豊島清元館」?
さらに、清元以前からの豊島氏の館であれば、「豊島氏館」と呼んだ方がよいのかも。ただ、通りが良い名前だということで今でも「豊島清光館」と呼ばれているそうです。
豊島清元は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍しました。石橋山の戦いには関与せず、源頼朝が安房で再起してから仕えました。
その後の源平合戦での功績により、武蔵に広大な領地を得ました。3男の葛西清重も奥州合戦などで活躍し、陸奥の大家として栄えました。
ただ、清元自身は身内に不幸が相次いだようで・・・2男・清康が荒川での水練中に溺死。更に、1人娘が嫁ぎ先での不幸を悲しんで荒川に身を投げたり。これらのことが重なって、清元は出家して菩提を弔ったのでしょう。
清光寺はその後、何度か廃れては復興され、を繰り返しています。まずは1460年代。盗賊に襲われて荒らされました。更に1478年、太田道灌との積年の対立が長尾景春の乱で爆発。道灌により豊島氏が滅ぼされます。この時、清光寺の僧も豊島方として戦ったため、清光寺は焼かれてしまいました。豊島氏は太田道灌により滅ぼされましたが一族は続き、後北条氏に仕えています。
1546年、府河(布川?)城主・豊島頼継により再興されました。
1563年、上杉氏の残党が布川城を攻めた際に荒らされたらしいですが・・・この年にあった大きな戦は国府台合戦。地理的にもかなり近いので、この時の事だと思います。
その後、年は不明ですが豊島明重により再興されました。この豊島明重は1628年8月10日、江戸城内で老中・井上正就を斬り殺しました。これにより嫡男・継重にも切腹が命じられて豊島家は断絶しました。
1742年、豊島清光の坐像が奉納されました。願主は祐真、施主は新田村の豪農・長谷川弥兵衛です。
そして2009年、本堂などが改築されました。それまであった建物は明治時代に建てられたものだそうです。この建替えの経緯についてはわかりませんでした(´▽`*)
所在地:東京都北区豊島7丁目(清光寺)
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