2019/05/30
千石城/宮城県大崎市
千石城は別名・松山城とも呼ばれ、かなり広大な公園となっています。訪問日は2017年8月6日です。

北西の麓から登ってくると、駐車場の手前にこれがあります。
かなり文字がビッシリ書かれた説明板です。

駐車場は段々になっていて、曲輪の跡をそのまま使っているようです。
ここには家臣の屋敷があったのでしょうか。

上から見た所です。
この曲がり角は、おそらく枡形の跡のようです。
その外側に階段状に連なる平坦面。
どんな光景だったのか、想像がつきません


駐車場から大きく一段上がった所は、広大な平坦面が広がります。
現在は一面のコスモス園となっていますが、お城の三の丸でした。

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いつもは図のある所で載せていますが・・・
それだと一番最後になり、構造が?なまま紹介が進みます。
ということで、先に載せておきます。
登ってきたのは一番上の真ん中で、直角に曲がって三の丸に入りました。

三の丸に入り、北側の端に土塁が残っています。

三の丸の北東に、細長い出っ張りがあります。
図の「曲輪V」です。
図があると説明しやすいです

城の本体から出っ張った、物見台のようです。
ここだけでもかなりの規模です。

三の丸を南へ進むと、本丸への矢印があります。
ここから先は、細長い稜線を利用した山城となります。

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上の写真の図が写っているので、一応載せました。
北から見ているので、南が上となっています。
三の丸から本丸は、この図には載っていない道を進みます。

図には載っていませんが、現地で自然に進めば本丸に行けます。
ここから細長い地形になります。
もともとは堀切か何かあったのかもしれませんが・・・
図ではこの細長い所は、三の丸の出っ張りのようです。

細長い出っ張りを進むと、途中でブッつり切れています。
山城らしい堀切がしっかり残っています


反対側から見た所です。
手前の二の丸の方がかなり高くなっています。

二の丸です。
真ん中を木で限定して通路にしています。
そのため、かなり狭く見えます。

二の丸の一番奥にも堀切があります。
往時はこんなに立派な橋は無かったでしょうけど・・・
何のために切り落としたのか、ですよね


こちらは帰りに脇を通った時に撮った同じ堀切です。
だいぶ埋まってしまった感じですが、雰囲気は伝わります。

一番奥にある本丸です。
それまでの細長い曲輪の先にある、かなり広大な平坦地です。
城全体もかなり大規模で、一土豪の城とは思えない程の大きさです。

本丸の端に、縄張図のある説明板があります。
この図がどうしても欲しくて・・・

足元の草をむしって、一生懸命拭きました^^
お水を持ち合わせていたら、時々やってます。
きれいになると、とても気持ちイイです


本丸の一番奥に、弁慶坂の案内がありました。
かな~りしんどそうな坂の名前です。
一般的には搦手口でしょうか。
縄張図を見ると、北側の平地に抜ける道がありそうです。
往時はここが目立たないよう、何か建っていたかもしれません。
◆歴史◆
1401年頃、遠藤盛継が築いたと考えられています
鎌倉公方・足利満兼により、遠藤盛継が郡奉行に任命され下向しました。
陸奥と出羽は1391年、鎌倉府の管轄となりました。
足利満兼は1399年に篠山と稲村に公方を置き、陸奥支配に乗り出しました。
遠藤盛継を下向させたのは、両公方を補佐させる目的だったと思われます。
千石城はこの頃に築かれたと考えられています。
遠藤氏が伊達氏に従うようになったのは、遠藤盛継の子・盛定からです。
遠藤盛定は鎌倉公方・足利持氏に従っていました。
しかし、足利持氏は永享の乱を起こして敗れ、1439年に自害しました。
一方の伊達持宗は鎌倉公方と対立し、篠川御所を襲っています。
1440年には、篠川公方・足利満直を殺害しています。
地理的には奥州管領・大崎氏の方が随分近いのですが・・・
この年代の大崎氏の当主が、名前すら?な状況です。
伊達持宗の影響力がかなり強かったようです。
以後、歴史に登場するのは・・・
1532年、伊達稙宗に従い遠藤光定が大崎攻めに参加
1542年~天文の乱で、遠藤定親が伊達晴宗方として参戦
遠藤定親は1588年、1589年にも伊達政宗に従って大崎攻めに参加
1590年、伊達家中の領地再配置で、遠藤高康が登米郡石森村に移りました
1590年、石川昭光が城主となりました。
石川昭光は伊達輝宗の弟で、三芳城の石川家を継いでいました。
しかし、佐竹家・蘆名家に近く、伊達家とは敵対し続けていました。
1589年、伊達政宗が蘆名家を滅ぼすと、伊達家の傘下となりました。
そのため、豊臣秀吉の小田原征伐への参陣を止められ・・・
奥州仕置きで領地を没収されてしまいました。
以後は伊達政宗を頼り、千石城を与えられました。
1603年、茂庭良元が城主となりました。
その前の1598年から5年間、吉内重直が城主でした。
結構大物?と思ってググりましたが、ここの城主だった以外何も出ず。
一門筆頭石川氏と重臣中の重臣である茂庭氏と同格だと思うのですが

茂庭良元は、伊達政宗の右腕だった鬼庭綱元の子です。
千石城主となった時は5千石でしたが・・・
大坂の陣や宇和島藩立ち上げで活躍し、家老相当の奉行職まで出世。
仙台藩2代藩主・伊達忠宗の側近となり、1万石まで加増されました。
茂庭良元は三の丸を居館としていました。
しかし1631年「手狭になった」ということで、新たに下屋敷を築きました。
あの三の丸が手狭だったなんて、途方も無いです

下屋敷は千石城のすぐ北西の麓で、現在松山高校のある所です。
1657年、廃城になったようです。
1651年に茂庭良元が隠居し、茂庭定元が家督を継ぎました。
茂庭良元は下屋敷へ移り、茂庭定元が三の丸に入りました。
しかし、やっぱり登るのが大変だったのでしょうか・・・
1657年、茂庭定元も下屋敷(上野館)へ移りました。
千石城には留守役の家臣をしばらくは置いていたそうです。
ただ、1680年頃書かれた『仙台領古城書上』に、千石城が登場します。
この年代には既に城として使われなくなっていたようです。
所在地:宮城県大崎市松山千石本丸 GPSログダウンロードページ
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