2019/05/29
彫堂七館/宮城県美里町
彫堂七館は山上の七つと麓の一つの曲輪群から成ります。訪問日は2017年8月6日です。

東側の駐車場です。
門があるので、何かあったのかもしれません。

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入口にある案内図です。
公園の案内図なので、城の構造はよくわかりませんが・・・
その左下にチラッと城の構造について書かかれています。
ここは「七舘八沢」と呼ばれ、丘の上に曲輪が連なっていました。
西から長舘、大舘、小舘、陣舘、狼之介舘、笹舘、蜂谷森の順に並んでます。
これらの周りに「八沢」と呼ばれる堀が巡らされていました。
この内、小舘、陣舘、狼之介舘と蜂谷森が公園となっています。
・・・どこがどこだか?です


門構えの駐車場から、砂利道の上り坂が続きます。

坂道を上がった所に、丸いタンクがあります。
公園じゃありませんが、一番東なので、ここが蜂谷森でしょうか?

タンクのある曲輪跡のすぐ先に、堀切があります


城跡の堀は脇役というか放置というか・・・
木々に埋もれて、ちょっと見えづらくなっています。

その先は、かなり長い平坦面が続きます。
これ、1つの曲輪でしょうか?

しばらく進むと、木々が無い芝生の広場が現れます。
ここからが公園のようです。

芝生の公園は、進むにつれて時々段差が現れます。
これが曲輪の境目と思われます。

段差の上の曲輪です。
かなり広く、ちゃんと平らに馴らされています。
奥にも段差が見えます。

次の段差です。
ここは堀の向こう側の分厚い土塁を越えて行きます。

一番高い曲輪です。
赤い鳥居があり、神社の境内のようです。
案内図で一番左側の広場がここです。

何かの石碑です。
真ん中で折れています。
雷が落ちたのか、倒木が当たったのか。
折れた上の部分は見当たりませんでした。

曲輪の一番奥です。
この向こう側は住宅街になっており、公園の端がココです。

南側には、城塁を真っすぐに下りる階段が付けられています。
その一番下にも真っ赤な鳥居・・・
やっぱり、神社ですねw

階段を下りて西側を見ると、普通に住宅街が迫っていました。

元来た東側には、連なる曲輪の城塁が見えます。
その脇を歩ける道があります。

上を歩いているとわかりにくかった堀切が、真横からはよく見えます

◆歴史◆
大崎氏の陣と伝わります。
現地の説明板によると、四探題の時期に築かれたとあります。
四探題は大崎氏、吉良氏、畠山氏、大塔氏の4人を指すと思われます。
全員「奥州管領」ですが、意味合いは一緒ですw
この4人が同時にいたのが、1354年です。
説明板には『余目記』に書かれている内容が紹介されています。
それは、吉良氏に味方した大崎氏が畠山氏と戦った、という内容です。
畠山氏が南の対岸に拠り、大崎氏と遠矢の戦をしたそうです。
1351年、吉良貞家が畠山高国・国氏父子を討ちました。
吉良貞家は南朝の宇津峰宮を出羽へ追いやるなど、圧倒的な存在でした。
しかし、1353年以後史料に登場しなくなり、この頃没したとされます。
この機を捉え、畠山氏が吉良氏へ反撃に転じたのかもしれません。
混乱する吉良氏を助けるため、足利尊氏が向かわせたのが斯波家兼です。
これに対抗して、足利直冬が奥州管領に任命したのが石塔義基です。
足利直冬は足利尊氏の子ですが、認知されませんでした。
そのため足利直義の養子になり、実の父と激しく争った人物です。
石塔義基が下向したのも1354年で、年末に斯波家兼に討たれています。
所在地:宮城県遠田郡美里町北浦蜂谷森 GPSログダウンロードページ
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