2019/05/28
大窪城/宮城県大郷町
大窪城は伊達一門・大松沢氏の城でした。訪問日は2017年8月5日です。

大窪城跡への入口は、県道16号沿いにこの石碑があります

現地ではこの右側にもう1本道があり、どっちだ?となりますが・・・
左の道を進んで下さい。

道の突き当りが城跡で、駐車場があります。

駐車場から奥へ進むと、入口が土橋になっています。

土橋の両脇は、もちろん堀があります


堀を越えた所にある平坦地が二郭、左奥の高い所が主郭です。

土橋を渡ってすぐ左に、八幡神社があります。
堀の脇の土盛りにあり、堀沿いにはこのような土塁があったようです。
往時は入口を守る番所的なものがあったのでしょうか。

主郭を真正面に入れて撮ってみました。
真ん中にある白い板が、私に手招きしています


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手招きしていた白い板は、城跡の略図でした。
略図とありますが、かなり見やすいです。
変にゴチャゴチャになるより、スッキリして見やすいです


主郭へは、略図の背後にある斜めの坂道を上がります。

主郭は、真ん中に四阿があります。
とてもよく手入れされており、真夏なのに草丈がありません。

主郭の一番奥からは、眼下に帯曲輪が見えました。
その中に何やら石碑がチョコンと見えました。
気になる・・・

ということで、主郭の裏側へ行きました。
主郭から下りていく道が無かったので、二郭から主郭脇を進みました。
少しだけ草深いですが、苦も無く歩ける程度でした。

主郭の裏側です。
上から見えた石碑には「通用門跡」と彫られていました。
お城用語では「搦手門跡」ということでしょうか。

なんとなくですが、深い木々の中を密かに抜け出せそうな感じです

◆歴史◆
宮沢氏の城でした。
宮沢氏は、伊達家初代・伊達朝宗に仕えた飯田吉実を祖とします。
伊達家一族の家格を許され、伊達郡宮沢を与えられ宮沢姓を名乗りました。
宮沢時実の代に大松沢の地を与えられ、移って来ました。
年代は不詳ですが、1400年代終わり頃から1500年代始め頃とされます。
時期的には伊達尚宗か伊達稙宗の頃とされます。
大崎氏、葛西氏ともに内紛が続き、伊達氏が影響力を強めた時期です。
葛西家ではこの頃にゴタゴタがありました。
1483年、葛西家当主・葛西尚信が若くして世を去りました。
実はこれ、後見役だった叔父・葛西政信による毒殺でした。
兄の家系を絶やして家督を奪う算段でしたが・・・
伊達家から伊達尚宗の弟・宗清が養子に迎えられました。
葛西宗清が家督を継ぐと、葛西政信と激しく争うようになりました。
おそらく、嫡流派が葛西宗清を担ぎ、葛西政信と激突したものと思われます。
両者の戦いの結末が不明確ですが、次の家督は葛西政信の子が継いでいます。
大崎家でもゴタゴタがありました。
1488年、大崎義兼は伊達尚宗から援軍を借りて内紛を収めています。
大崎義兼は当主としての器量がかなり危うげな人物でした。
そのため、伊達尚宗、伊達稙宗らがツケ入る隙がかなりあったようです。
その大崎義兼が1529年に没し、子の大崎高兼も1年で没しました。
大崎家はかなり不安定な時期でした。
大窪城のあった大松沢は、大崎家と葛西家の境目に位置します。
ここに宮沢時実が配置されたのは、伊達家が両家を牽制するためでした。
周辺では大崎家と葛西家の争いが絶えない不安定な地域でした。
しかし、宮沢氏は大松沢の地を一度も奪われず守り切りました。
宮沢元実が大松沢姓を名乗るようになりました。
宮沢元実は伊達政宗の時代の人物です。
対大崎軍・対相馬軍との戦では、常に伊達軍の先陣を務めた勇士です。
朝鮮出兵後に、伊達政宗から地名の大松沢を名乗るよう命じられました。
これを機に、改めて伊達一族の家格に列せられています。
以後、明治時代に至るまで、大松沢氏が大窪城を居城としました。
所在地:宮城県黒川郡大郷町大松沢字論山 GPSログダウンロードページ
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