2019/05/27
花楯城/宮城県大郷町
花楯城は大楯城・小館丸館と連なる曲輪の1つです。訪問日は2017年8月5日です。

3つの曲輪の内、内部を見ることが出来たのが花楯城の標柱の所でした。
その入口がココです。
よく反対側から紹介されますので、切通し側からの写真を載せます。
ただ、実はちょっとややこしく、花楯城の標柱はその入口を示したものです。
この入口から登った所は大楯城の曲輪で、花楯城はその先です。
・・・と、帰ってきてから知りました

なので、この堀切は大楯城の2つの曲輪を隔てているものです。
3つの曲輪はそれぞれ名前がありますが、まとめた総称があったはずです。
迷いましたが、タイトルは標柱どおり「花楯城」としました。

こちらが入口としてよく紹介されている階段です。
階段脇の白い標柱に「花楯城」と書かれています。

1つ目の階段を上がると、平坦な曲輪があります。
奥に階段がありますが、これは大きな土塁に付けられています。

2つ目の階段を登り切った所にある曲輪です。
訪問当時に花楯城だと勘違いした、大楯城の二郭です。
花楯城はこの奥の堀切の先にある曲輪なのだそうです


もちろん、大楯城と小館丸館も見に行きました。
大楯城の花楯城側は断崖絶壁で、とても入れそうにありません。
大楯城の城塁に沿って回り込んだ反対側に、大楯城の標柱があります。
この切通しは、小館丸館と大楯城を隔てた堀切の跡です。

上の写真で車の後ろに写っている大楯城の標柱です。
せっかくなので内部を見たかったのですが・・・
見た感じ私有地っぽく、入るのが躊躇われ入っていません。

もう1つの曲輪である小館丸館の標柱が、道の反対側にあります。
この中に写っていますが、わかりますか?

できるだけ葉っぱを掻き分けて撮りました。
こちらは入っていく道すらわかりませんでした。
◆歴史◆
天文年間(1532~55年の間)に金沢長門守が城主でした。
花楯城でわかっているのはこれだけです。
「金沢」は「かざわ」と読みます。
金沢長門守が葛西一族であることしかわかりませんでした

・・・という事で、周辺の状況を探りました。
天文と言えば、1542年から6年間続いた天文の乱がありました。
この辺りは葛西氏、黒川氏、大崎氏の勢力境です。
天文の乱で各氏は伊達稙宗派、伊達晴宗派に分かれて争っていました。
この辺りは勢力境と先ほど書きましたが・・・
・すぐ西の黒川景氏は伊達稙宗派
・すぐ北の千石城の遠藤光定、不動堂城の大崎義宣も伊達稙宗派
・すぐ東の石巻の葛西晴清も伊達稙宗派
・金沢氏当主の金沢胤正も伊達稙宗派でした。
ただし、金沢氏の本拠は岩手県一関市なので、かなり距離があります。
という事で、周りはガッツリ伊達稙宗派で囲まれています。
おそらく、花楯城の金沢長門守も伊達稙宗派だったと推測されます。
彼らの状況を時系列に並べると・・・
・1544年、金沢胤正が葛西高信(のちの晴胤)に討たれた
・1547年、葛西晴清が他界(戦死ではなさそう)
・1550年、大崎義宣が逃亡中、大崎義直に殺される
といった感じで、伊達稙宗派だった勢力が乱の進行とともに消えています。
ただし、黒川景氏だけは天文の乱後も健在でした。
という事で、金沢長門守も無事では済まなさそうな状況でした。
所在地:宮城県黒川郡大郷町山崎
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コメント
無題
2021/05/17 19:56 by 柴 修也 URL 編集