2019/05/26
大衡城/宮城県大衡村
大衡城跡には城郭をイメージした施設があります。訪問日は2017年8月5日です。

まずは城跡にある施設を目指しました。
ちょっと入った住宅街ですが、背後の建物がとても目立ちます。

城郭風の建物もまぁまぁ好きですが・・・
屋根の上の方だけ、というレアな造りです


もともとそっちはあまり期待していなかったので、城址碑へ。
建物の裏手の広場にソレはあります。

そこで見てしまったこの光景。
道に沿ってある凸凹の連続・・・


城跡らしさをあまり期待して無かった所だけに、吸い寄せられました^^
まださっき見た凸凹まで来ていませんが、すでに雰囲気あります。

台地上はコンクリートで固められていますが、端はそうでもありません。
城塁や腰曲輪がはっきり見て取れます(*^▽^*)

後から盛った感がしますが、嫌いではありません。

ウネウネ曲がりながら登って来る道、たまりません


ウネウネ道の脇には、階段状に曲輪が連なります。

下から見た所です。
土塁で道が隠されています

本当は反対側にも土塁があったかもしれません。

一番下には冠木門と説明板があります。
通り道が土塁で限定されています。
往時はこの土塁の陰に弓矢や鉄砲を持った兵士が隠れていたのかも。
・・・何か色々勝手に見えてきました


ここにも立派な駐車場があります。
◆歴史◆
1544年、大衡宗氏により築かれました。
大衡宗氏は黒川景氏の子です。
城が築かれた1544年は、天文の乱の最中です。
父・黒川景氏は伊達稙宗派の主力として活躍しました。
この時期という事で、反対勢力が居た場所なのかもしれません。
勝手な想像ですけど

1590年、廃城になりました。
大衡宗氏は1588年、甥の黒川晴氏とともに伊達政宗に反旗を翻しました。
これは大崎合戦での出来事で、本家に味方したのでした。
しかし、1590年の奥州仕置きで大崎義隆は領地を没収されます。
大崎義隆に従っていた黒川晴氏も同じく領地を没収されました。
この時に大衡城も廃城となりました。
葛西大崎一揆で一揆軍が占領しました。
奥州仕置きで領地を失った葛西・大崎両家の旧臣達が武装蜂起しました。
・・・という事になっています。
実はこの一揆、伊達政宗が扇動したという説が濃厚です。
豊臣秀吉から一揆の鎮圧を命じられた伊達政宗は兵を出しました。
しかし、鉄砲隊は空に向かって発砲し、戦もただ真似事をするだけ。
・・・と、伊達家臣の一部が鎮圧に当たっていた蒲生氏郷にチクリました。
伊達政宗は豊臣秀吉に釈明するため、上洛するハメとなり・・・
証拠隠滅のためか、伊達軍は急に一揆勢を攻め始めました。
大衡城に立て籠もっていた一揆勢も、伊達軍に攻められ落城しました。
この際に、大衡宗氏が戦死しています。
「伊達軍と戦って」という事なので、一揆側に居たようです。
ただし、大衡宗氏の子・大衡氏胤は後に留守政景に仕えるようになりました。
誘っといて父親を討ち取ったのですから、伊達政宗もバツが悪いですよね

大衡氏は以後、留守家(水沢伊達家)に代々仕えたそうです。
所在地:宮城県黒川郡大衡村大衡塩浪(大衡城青少年交流館)
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