2019/05/24
利府城/宮城県利府町
利府城は留守一族の村岡氏、のち留守政景が居城としました。訪問日は2017年8月5日です。

利府城跡は公園として整備され、立派な道、立派な駐車場があります。
その2つ目の駐車場がココです。
ここに車を停めた瞬間、車体のアチコチからコツンコツンと音がしました。
音の正体はウシアブで、車を獲物と勘違いしてアタックしていました。
外に出たら刺されるんじゃないかと、暫く車中で待機。
すると、今度は車の周りにツバメが集まって来ました。
どうやら、車に群がるウシアブ目当てのようです。
真夏の山中で目の当たりにした食物連鎖・・・・
その底辺に居たのが私でしたw

道は続いていたので、本当はもっと上まで車で行きたかったのですが・・・
この案内を見て山上には停められないと思い、ここから歩きました。
ウシアブ達のお目当ては車だったので、外に出ても大丈夫でした。
ただ、気を付けないと車の中に飛び込んで来ます


下の駐車場からは、この道を登ります。
きれいに舗装された道があるのに、車で登れないなんて・・・
そう思いながら坂道を上がりました。
普段はニコニコしながら獣道を登るクセに、贅沢言ってますw

坂道を登り切った所に、この駐車場がありました。
身障者用駐車場は、道を挟んだ反対側にあります。
ここまで来れると知ってたら車で来たのですが・・・
車で見に来て、ダメだったら下ればよかったんですね

今度からはそうしますw

駐車場から先はこんな感じで道が分かれます。
道は舗装されていますが、車止めがあるので徒歩で進みます。
まっすぐな道と登る道があれば、後者を選ぶのが城キチです。
本能の赴くがままに進みます。

すると、白漆喰風のトイレと案内図、文字の説明板がありました。
城跡らしいセットの登場です

これらに目を奪われますが、右側の城塁は主郭のものです。
よじ登るのが大変そうな、可愛いヤツです^^

拡大表示
恒例となりましたが、パクります。
文字が小さくなってしまったので、書き足しています。
公園の案内図という事で、遺構がどこにあるという図ではありません。
ただ、点在する広場が曲輪だという雰囲気だけは掴める感じです。
この図がある位置は、右側の桜の園のすぐ下です。
広場は左側にいくつかあり、右側に大きいのが1つあります。
どちらかが初期で、後に拡張されたっぽい感じがします。

案内図のすぐ上にある桜の園です。
その名の通り、桜の木が沢山ありました。

ここのこの雰囲気、もしやここが主郭?という雰囲気が漂います。
あくまで私の主観ですけど。

この広場に、利府城の城址碑があります


桜の園から先へ進みます。
奥の道を下りると、先ほど分岐した道に合流します。
この広い道は、もとからあった道ではなさそうです。

次に現れたのが憩いの丘と芝生広場、ふれあい広場などです。
平坦なので、曲輪があったのでしょうが・・・
周りも平らなので、特にここが、という感じには見えません。

さらに進んだ所にあるのが、どかん広場。
案内図で見て???でしたが、まさにその通りですw

そして一番奥が、頂上広場です。
名前からして、一番高い所なのでしょう。
山城のセオリーからすると、こちらが主郭のような気もします。
ここは堀や土塁が見当たらず、城跡らしさは感じられません。
立派な道が通され、草木は刈られ、とてもよく整備されてはいますが。
公園として整備した影響なのか、元々がそうなのかは?です。
◆歴史◆
留守一族・村岡氏の城でした。
築城時期は不明ですが、留守氏の一族・村岡氏の居城でした。
村岡氏は一族の中でも特に重く用いられていたようです。
1556年、村岡常継が留守顕宗を攻めました。
留守顕宗は天文の乱(1542-48)では伊達晴宗方の主力でした。
しかし、乱終結後は伊達晴宗と対立しました。
その理由がサッパリわかりませんが・・・
伊達晴宗は天文の乱の序盤は劣勢でした。
後半になり逆転したのは、蘆名盛氏が味方になった事が要因です。
この時に味方を増やそうと、あちこちで報酬の約束を乱発しました。
乱に勝利した伊達晴宗は、その約束を整理したのですが・・・
不仲になったのは、そのせいだったのかもしれません。
村岡常継は留守一族ですが、伊達晴宗に動かされたようです。
この戦は、留守顕宗が村岡常継の娘を側室に迎えることで和睦しました。
1569年、留守政景により攻め落とされました。
留守政景を養子に迎えるにあたり、村岡常継が猛反発。
そのため攻め落とされたと、あちこちに書かれています。
伊達家からの養子は3回目なのに、なぜこの時だけ反発したのか・・・
素朴な疑問でした。
私、こういうのほじくり返すの大好きです

1567年、伊達晴宗は自らの三男を留守顕宗の養子に送り込みました。
この養子が留守政景です。
以前に伊達家から養子を迎えたのは、後継ぎが居なかったためでした。
しかし、留守顕宗には後継ぎとなる男子が居ました。
その母親が、村岡常継の娘でした。
本来であれば、村岡常継の孫が留守家を継ぐはずでした。
村岡常継が猛反発したのは、そのせいだったのかもしれません。
養子を迎えてから2年後に戦になった理由も気になります。
もしかしたら、当初は養子が家督を継ぐ話ではなかったのかもしれません。
家督を継いだ留守政景が村岡常継を攻め、村岡氏は滅亡。
留守顕宗は村岡氏の城に本拠を移し、利府城と名を改めました。
この時に留守顕宗の子・宗綱は、高城周防守の養子に出されました。
1590年、廃城となりました。
家督を継いだ留守政景は、伊達軍の主力として活躍しました。
傍から見れば、どう見ても伊達家臣そのものでしたが・・・
奥州仕置きでは独立勢力と見なされ、領地を没収されました。
留守政景はその後も伊達政宗に従い、後に伊達姓に復姓。
最終的には水沢に落ち着き、伊達一門第三席の水沢伊達家となりました。
所在地:宮城県宮城郡利府町利府城内 GPSログダウンロードページ
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コメント
無題
こんなだったっけなーと当時を回想しながら読ませていただきましたm(_ _)m
2019/05/24 12:53 by 御城学 URL 編集
Re:無題
ココは虻と燕の方が印象的でした。
公園にした時に色々やっちゃったんでしょうね。
2019/05/24 17:49 by なぽ URL 編集