2019/05/23
岩切城/仙台市宮城野区
岩切城は留守氏の城でした。訪問日は2017年8月5日です。

岩切城跡への入口です。
カーブの真ん中に、高森山公園の散策路が口を開けています。
車はここに停められます。
左側の大きい白い板は、周辺にある観光地の分布図です。
岩切城についての説明板は、右側に写っている小さいヤツです。

ということで、真ん中の城址碑さんです


入口からは、しばらくこんな感じが続きます。
左側の高い所が土塁、通路が犬走りのように見えます。
しばらくこんな光景が続きます。
もしかして、上から寄せ手を攻撃するための構造?なんて思いました。

しかし、途中に切れ目があります。
堀切っぽくも見えますが・・・
ここから寄せ手に上がられてしまいます

これ、本来は無かったのかもしれません。

そんな通路も、やがて大きく右へカーブします。
土塁?も一緒について来ます^^

ヘアピンカーブの外側に、いきなり大きな堀切が現れます

左右に大きな曲輪があり、ここでは左側に上がれます。

左側の曲輪です。
広くて、平ら、デス


低い方の曲輪から、堀切越しに高い方の曲輪を見た所です。
山城ではお馴染みの光景です♪
あちら側の内側が見えません。
あちら側からは、こちら側が丸見えという事です。
うわぁぁぁと攻めてきて、取ったドー!とやると殺られますw
たぶんw

ということで、今度は殺る方の曲輪に上がります。

・・・ん、まぁ、そうですよねw

通路に戻って進むと、先程の曲輪の先に一段低い曲輪があります。
地方によっては笹曲輪と呼んでたような、そんな感じの曲輪です。
っつっても、イメージ出来ませんよね・・・
尾根の先端が、ちょっとずつ階段みたくなった感じ、でしょうか。

先ほどの先にも、曲輪が段になっています。
一番下の曲輪はかなり広いです。

どこまで続くのか気になり、さらにその先端まで行ってみました。
流石にここから先は草深くなり、私でも進めませんでした

でも、曲輪の先端を帯曲輪っぽく囲んでいるのがわかります

◆歴史◆
留守氏の城でした。
築城時期は不明ですが、奥州留守職の留守氏の城でした。
1190年、伊沢家景が源頼朝により陸奥留守職に任じられました。
留守職は民政・財政を担当し、陸奥の地頭らへの命令権を持ちました。
多賀城周辺を領地として与えられ、2代目から留守姓を名乗りました。
南北朝時代当初は南朝方に属し、後に北朝方に転じました。
1351年、岩切城合戦がありました。
という事で、遅くともこの時までにはあった事になります。
北朝方の吉良氏と畠山氏は、南朝方を圧倒して多賀城を奪還しました。
しかし、観応の擾乱が始まると、両氏が争うようになります。
そもそも、奥州管領が2人同時に任命されるって、おかしいですよね?
吉良貞家が畠山高国を攻めると、畠山軍は留守家次の岩切城に籠城。
しかし、吉良軍が大勝し、畠山高国は自害しました。
留守一族も大打撃を受け、領地の多くが国分氏に与えられました。
留守氏と国分氏の抗争は、この時代から戦国時代まで続きます。
吉良貞家はさらに、宇津峰城を陥落させて南朝勢力を駆逐。
圧倒的優勢となった吉良貞家ですが、1353年頃に没したようです。
後を継いだ吉良満家も1356年頃に没し、吉良家は大混乱に陥りました。
留守氏はこの頃奥州管領に就いた斯波家兼(大崎氏の祖)に従ったようです。
元亀年間(1570~73年の間)に廃城となりました。
留守氏は国分氏との抗争を続ける際に、大崎氏を後ろ盾にしました。
その大崎氏は伊達氏の干渉を受け、留守氏にも影響するようになります。
戦国時代になると、伊達氏から来た養子が家督を継承。
血はすっかり伊達一族になりました。
留守政景は伊達晴宗の子で、1567年に留守家を継ぎました。
そのすぐ後に国分氏も弟・国分盛重が継ぎ、両家の争いが終わりました。
留守政景は利府城に居城を移したため、岩切城は廃城となりました。
留守政景はその後、甥の伊達政宗に従い大活躍しましたが・・・
1590年、奥州仕置きで領地を没収され、以後は伊達家臣となります。
関ヶ原の戦では伊達軍総大将として、最上義光への援軍を率いました。
撤退する上杉軍の追撃戦で活躍し、伊達一門第三席に列せられました。
以後、留守政景は伊達姓に復姓し、水沢伊達家の祖となります。
所在地:宮城県仙台市宮城野区岩切入山 GPSログダウンロードページ
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