2019/05/22
長命館/仙台市泉区
長命館跡は公園になっています。訪問日は2017年8月5日です。

ここを訪ねる前、駐車場が全然わからなかったです。
公園を紹介するサイトで、駐車場は「有る」と書かれていました。
しかし、ストビューでは駐車禁止の標識が見えるだけの道でした。
どこなのかは結局わからず「あるんなら大丈夫でしょ?」で現地へ。
そして見つけたのはココです(地図で右下のマークがココです)。
これじゃ、ストビューでは見つかりません。

駐車場のすぐ近くにあるのが「南入口」です。
城キチが造ったような感じの虎口風です

でも、長命館跡で唯一崩されたのが、この入口一帯でもあります。

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上の写真の右隅に写っている案内図です。
公園の通路がそのまま曲輪の形っぽく見えます。
見える人にはそう見える、というだけですけど


虎口風の入口を進むと、広い所に出ます。
門か番所があったっぽく見えますが、ここも崩された所です。

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上の写真に写っている板に載っている図です。
現状の地形がうっすら重なって描かれています。
現在地周辺にうっすら線がやたらとあるのがわかります。

入口の広場の一番奥にある冠木門です。
ここから城跡がスタート!です。

何気なく歩いていますが、いきなり堀切です


入口から見て左側の曲輪です。
かなり広いです

でも、何となくですが、主郭ではない、と思います^^;

こちらの曲輪は、土塁で囲まれています。

私は公園の通路を時計回りに進みました。
・・・どこかの堀切です


最初に出てきた入口です。
南入口から入ったのですが、違う入口なのに南入口?
・・・かと思ったら「散策路南入口」でした。

また公園に入り直して時計回りに進むと、二重堀がありました

二重堀、ですよね?

そうこうしてまた入口に出ました。
ここは「散策路西入口」です。

またまた公園に入り直して時計回りに進むと、横堀がありました。
ここまで見てきて、戦国時代前期っぽい造りだなぁと感じました。

堀が大好きなので、サービスショットをもう1枚!
自分だけのご褒美じゃないハズです!
たぶん

横堀で囲まれた曲輪に、展望台っぽいのがあります。
ここは右上の方にある物見岡です。
雰囲気的に主郭っぽく見えますが、たぶん違います。

ここに案内図と文字ビッシリの説明板があります。
・・・主郭っぽく見えます。

横堀に戻って、物見岡の外側をグルっと回り込みました。
手前側は結構きれいでしたが、ここら辺は野生っぽいです


時計回りに回り込んで上がった曲輪には、四阿があります。
長命館公園の中心にあるココが「館跡」という曲輪です。
場所といい名前といい、、、ですよねw

館跡の南側に、草を掻き分けるような道があります。
両脇に柵のあるココは、見えないですけど、たぶん土橋です。

土橋?の先に小さな曲輪があり、その端から堀切越しに曲輪が見えます。
奥に見えるのが、最初に上がった曲輪です。
ということで、これでグルっと一周しました。
あとで案内図を見たら、西入口と北入口には行ってませんでしたけど

まぁでも、そっちは道だけっぽい?ので、良しとします。

最後に、北入口です。
ここは車で次の城跡へ向かう途中に立ち寄りました。
ストビュー見ても、ここが公園の駐車場とはわかりませんでした。
写真が下手でわかりませんが、ここには車を3台程停められます。
◆歴史◆
詳しいことはわかっていません
いつ、誰の城だったのかは全く不明です。
説明板では「たぶん、こう?」なものがいくつか書かれていました。
それらをほじくり返してみます。
大河戸一族の城だった?
ググらなくてもいい位に説明板に詳しく書かれています。
なので、逆にザックリかいつまみます。
・大河戸氏は藤原秀郷の子孫と伝わる
・武蔵国大河戸御厨(埼玉県三郷市、八潮市辺り)を本貫地とした
・奥州合戦(1189年)の後、山村(長命館付近)の地頭となった
・戦国時代までに大河戸一族の多くが没落した
・大河戸氏を記録した史料が乏しい
国分氏の支配地域でした。
国分氏は南北朝時代頃から仙台を中心に栄えた一族です。
姓の由来はやっぱり領地で、国分荘から来ています。
国分荘は国分寺があった所で、現在の仙台市若林区です。
出自はよくわかっていません。
色々ある説は
・千葉常胤の五男・国分胤通の子孫
・長沼氏出身の僧が婿養子になった
・結城氏出身の結城七郎の子孫
などなどです。
実在が確実視される最初の人物が、国分淡路守です。
登場する出来事は、1350年の岩切城合戦、1353年の斯波家兼書状です。
国分氏は現在の仙台市を中心に、次第に勢力を拡大しました。
北の留守氏、南の伊達氏と戦国時代まで争い続けました。
1506年頃の留守氏の文書に「長命別当」の名が登場します。
留守氏と国分氏の戦で、国分勇者長命別当が打ち破られたという内容です。
国分一族で武勇に優れた武将が長命館に居た?かも?という名前です^^
国分氏が伊達氏に従うようになったのは、国分宗政の頃とされます。
1536年、伊達稙宗が大崎氏の内紛に介入しました。
この時に伊達稙宗とともに国分宗政が兵を出しています。
また、その後起きた天文の乱で、国分宗政は伊達稙宗に味方しました。
1577年、伊達輝宗の弟・盛重が国分氏の家督を継ぎました。
留守氏も国分盛重の兄・政景が家督を継ぎ、両家の争いは終わりました。
以後、伊達一門として伊達政宗に従いましたが・・・
1596年頃、国分氏が滅びました。
戦をして敗れたのではなく、国分盛重が伊達家を出奔しました。
その時期は、1596年か1599年のどちらかとされます。
理由は不明です

出奔した国分盛重は、甥である佐竹義宣を頼りました。
佐竹義宣が秋田へ移されると従い、伊達姓に復姓しています。
所在地:宮城県仙台市泉区加茂2丁目 GPSログダウンロードページ
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