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高舘城/宮城県名取市

高舘城は熊野那智神社の東側にあった山城です。
訪問日は2017年5月3日です。

【1】高舘城

熊野那智神社の駐車場に車を停め、少し手前に戻った所が登城口です。
入口のバリケードは、自転車の進入を防ぐためのものです。

【2】高舘城
拡大表示

入口にある案内図です。
等高線入りのかなり気合の入ったヤツです合格

【3】高舘城

入口から5分ほど進むと、谷底を歩くような感じになります。
早速ですが、これ、堀切です恋の矢
高舘城主要部と南側の秀衡が崎という曲輪を隔てています。
秀衡が崎への道は見当たらず、見るには藪を掻き分けての直登となります。

【4】高舘城

登城口から8分で、今度は左側に入る道が現れます。
右側の木には「高舘城跡」と書かれた案内が貼られています。
ここから入っていくということですね!

【5】高舘城

ここから入って見えるのが、この光景です。
ココは空堀で、右側が主郭です。
私はいきなり主郭には登らず、まっすぐ進んで時計回りに見て回りました。

【6】高舘城

空堀の一番奥からは、主郭の西側にある二重の堀が見えました。

【7】高舘城

堀を見たらとりあえず堀底へ・・・
私はこんなジャンルの城キチです。

【8】高舘城

堀底から戻って、主郭の外側を時計回りに進みます。
すると、主郭の北側の腰曲輪に出ます。

【9】高舘城

さらに時計回りに進むと、腰曲輪が狭くなります。
主郭に上がりやすい所があったので、ここから上がりました。
ここは虎口があったようです。

【10】高舘城

主郭内部は広く、西側に土塁がありました。
土塁の外側が、先ほど見た二重堀となっています。





◆歴史◆

あまりにわからないので、顕微鏡並に拡大解釈した妄想を楽しんでますあせる



1175年、藤原秀衡が館を築いたと伝わります。



こんな山の中に?と思いますが・・・

東北地方では、お城の事を「館(たて)」と呼ぶことが多々あります。

なので、もしかしたら城を築いていたかもしれません。

平家に非ずんば人に非ずなこの頃ですが・・・何があったんでしょう?

奥州絡みでは特に何も見当たりません。

京都では、保元の乱(1156年)で敗れた藤原頼長の子・師長が復権しました。

父親は赦免されておらず、謀反人扱いのままで内大臣になっています。

これは、後白河法皇が平家を牽制するために行った人事でした。

すると、反平家勢力が藤原師長の元に再結集し始めました。

千里眼の藤原秀衡は、きな臭さを感じて備え始めた?のかもしれません。



1189年、奥州合戦で藤原勢が籠城したと伝わります。



説明板に文治5年(1185)と書かれていますが、文治5年は1189年デスあせる

誰かこっそり直しておいて下さいw

1185年はまだ藤原秀衡が健在で、源頼朝は奥州に手を出せていません。

源頼朝の手法はまず無理難題を吹っ掛け、その反応を見ていました。

藤原秀衡の反応を見た源頼朝は、こりゃいかんと思ったのでしょう。

しかし、1187年10月末に藤原秀衡が没しました。



藤原泰衡が家督を継ぐと、以下不穏なニュースの連続でした。

・1188年12月、藤原泰衡が祖母(藤原秀衡の母)を殺害

・1189年2月、藤原泰衡が末弟・藤原頼衡を殺害

普段から異母兄・藤原国衡との不仲も伝わっていました。

ここに至るまでの間、きっと色んな手で揺さぶっていたと思われます。

源頼朝はすかさず、源義経を討つよう藤原泰衡に圧力を掛けました。

すると1189年6月、藤原泰衡が匿っていた源義経が殺害されます。

しかし、源頼朝は源義経隠匿を問題視し、朝廷に奥州討伐の院宣を要求。

これにビビッた藤原泰衡は、さらに弟2人を殺害します。

・・・傍から見ても大混乱ですあせる

戦わずして奥州藤原一族を粉々に粉砕した源頼朝、超恐ろしいデスw

源頼朝は7月19に出陣し、9月6日には藤原泰衡の首が届いています。



1351年、多賀城攻防戦時の名取要害と考えられています。



あちこちでこう書かれていますが、高舘城がどう関わったのかが?でした。

なので、ちょっと執念深くググり続けてみました。

この攻防戦で登場する高舘城っぽいお城は①名取要害と②羽黒城です。



この頃の状況は・・・

1347年9月、吉良貞家・畠山国氏が多賀城・宇津峰城を攻略

1351年3月、吉良貞家が畠山国氏を攻め自害させる

1351年10月、宇津峰宮が伊達宗遠らを率いて多賀城を奪回

1351年11月、吉良貞家が宇津峰宮に敗れ、伊具館へ退却

1352年閏2月、宇津峰宮が北畠顕信に奉じられ伊達郡へ出陣

1353年3月、隙を突いた吉良貞経が多賀城を占領

1353年3月、宇津峰宮は北畠顕信とともに宇津峰城に籠城。

1353年5月、吉良貞家が宇津峰城を陥落させる

という感じで、かなりめまぐるしいです。

①名取要害

1351年11月25日の吉良貞家文書に登場します。

大雑把な内容は、名取要害がボロイので伊具舘に移った、という感じです。

出来事からすると、名取要害を守り切れなかったという事ですね。



②羽黒城
1352年2月26日、吉良貞家は吉良貞経らに多賀城攻めを命じました。

吉良貞家は3月1日に羽黒城に着陣し、3月11日に多賀城を攻撃しています。



伊達稙宗が一時居城としました。



永禄年間(1558~70年の間)に伊達稙宗が居城にしたとされます。

伊達稙宗は1548年に天文の乱に敗れ、丸森城で隠居していました。

Wikipediaだと、その後は1565年に没した事以外?です。

その後城代となった福田駿河守も、いくらググっても?でしたあせる

わかったのは、すぐ東にある秀麓斎に2人の位牌がある事ぐらいです。

この秀麓斎には、伊達晴宗の位牌もあります。

福田駿河守が乱で戦った父子の間をとりもったのでしょうか?



近隣の状況は、国分氏と留守氏の対立があります。

天文の乱では国分氏が伊達稙宗方、留守氏が伊達晴宗方でした。

元々仲が悪いので、伊達家の内紛に乗っかって戦ったようです。

乱終結後、留守氏は1556年頃から伊達晴宗に反抗するようになります。

・・・年代がピッタリw



伊達稙宗がココに来るとすれば、国分氏の後方支援でしょうか。

実は伊達晴宗も来ていたようで、1563年に熊野本宮に色々奉納しています。

ただ、伊達晴宗が来ていたのは、相馬軍との戦のようです。

1564年に伊達晴宗は名取郡座流川で相馬軍と戦って敗れています。



福田氏については少しだけ出てきました。

まず、福田駿河守は「高舘城の城代になった」しか出て来ずあせる

少しだけですが、他の福田氏も出てきました。

時系列で並べると、最初は福田広重(若狭守)です。

1541年、伊達稙宗の手紙を黒川景氏に届けています。

内容は大崎義宣(伊達稙宗の子)の警護依頼です。

次は福田備後守・玄蕃父子。

1542年に始まった天文の乱で、福田玄蕃は伊達稙宗に味方していました。

大崎義宣が1543年に「名取郡高舘の福田玄蕃」に送った書状があります。

しかし、伊達晴宗が優勢になると、福田玄蕃は寝返りました。

隠居の父・福田備後守はこれに猛反対。

隠居の身でありながら、伊達稙宗への忠義を貫きました。

・・・わかったのはここまであせる
福田氏は天文の乱以前から高舘城の城主だった、という事ですね!





所在地:宮城県名取市高舘吉田字西真坂 GPSログダウンロードページ

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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