2019/05/19
川崎城/宮城県川崎町
川崎城跡は、小学校と公園になっています。訪問日は2017年5月3日です。

北側の入口です。
正面に小学校が見えますが、その右にある公園にも入れます。

拡大表示
案内図があったので、早速パクります。
北側から見ている図なので、北が下になります。
公園が主郭、小学校が二郭だったと考えられています。
細長い舌状台地で、付け根を堀切で区切っていると書かれていました。
・・・説明板にですw
残念ながら、そちらは見ていません


入口から前の道を振り返った所です。
いい感じのカーブなので、何となく虎口跡っぽく見えてしまいます。
こちら側は搦手なので、こんなに立派ではなかったと思います。

公園と小学校は、結構高低差があります。
主郭と二郭は土塁で仕切られていたそうで、ここが境目かもしれません。
肝心の土塁が無くなっている?ので、何とも言えませんが・・・

近くには、何となくそれっぽい土盛りがあります。
フェンスで囲まれているので、登って遊ぶためのものではなさそうです。
もしかして、これ、土塁の生き残り!?なんて思いましたが・・・
案内図を見ると、配水池と描かれていましたw

公園の南側に、標柱と説明板があります。
標柱は「前川城址(川崎要害)」、説明板は「川崎要害」です。
説明板の文中では「川崎城または臥牛城と称した」とありますけどw
まぁ、じっくり読んで下さい^^

大手は南側にあったと、説明板に書かれていました。
地図見ると、ここからウネって曲がって下りる道があります。
でも、ココあんまり虎口っぽく見えません


言われなければ城跡だとは気づかないレベルの公園です。
端っこに正体不明の石碑があります。
私の中で、勝手に城址碑という事にして気分を盛り上げました

◆歴史◆
1608年、砂金実常により築かれました。
砂金氏は「いさご」と読みます。
約1.5km南西の中ノ内城を居城としていました。
鎌倉時代か、遅くとも室町時代初頭には、この辺りの領主でした。
文明年間(1469~87年の間)に伊達氏に従うようになったそうです。
11代目の砂金実常は伊達政宗に仕え、1608年に川崎城を築きました。
大坂の陣(1614-15年)の功により、伊達一族格に列せられます。
1615年の一国一城令後、川崎城は要害として残りました。
しかし、1702年に砂金重常が嗣子無く没し、断絶しました。
1868年まで川崎伊達家の居城でした。
1702年、黒川郡宮床から伊達宗興が転封しました。
しかし、20年後に再び黒川郡宮床に戻りました。
1722年、伊達村詮が領主となりました。
伊達村詮の父親は、中津山藩主・伊達村和です。
刃傷沙汰を起こして改易されました。
伊達村和が没すると子の伊達村詮は赦され、川崎2千石を与えられました。
以後、7代目の伊達邦賢が戊辰戦争で敗れるまで続きました。
所在地:宮城県柴田郡川崎町前川字館山西(城山公園・川崎小学校)
宮城県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント