2019/05/18
亘理城/宮城県亘理町
亘理城は亘理氏が本拠とし、後に亘理伊達氏の居城となりました。訪問日は2017年8月5日です。

亘理城跡は現在神社となっており、道沿いにデカデカと案内があります。
この斜面は本丸の切岸で、ここに入口があります。

すぐ近くの交差点を曲がると、こんな道があります。
デカイ堀跡だなぁなんて感心してましたが、これ、後世の切通しです。
壮大にやらかしてます


本丸跡は亘理神社となっています。
この辺り一帯を支配した亘理氏の城だけあって、かなり広いです。

社殿の背後には、忠霊塔があります。
適度に木々が生い茂り、いつもの山城っぽい雰囲気があります。
ただ、頭上にはご注意下さい。
ここはサギの寝グラとなっており、落し物が沢山あります


本丸の一番奥から見た亘理高校です。
高校の敷地も元々は城域でした。
図では馬場と書かれています。

拡大表示
本丸にある説明板です。
図を見ると、かなり改変されていることがよくわかります。
本丸に神社が無ければ、跡形もなく消えていたかもしれません。

ザックリ道路の向こう側です。
昔は地続きで、あちらも本丸でした。
奥の木陰に土塁が見えるような気が・・・
あっち側にも行けば良かったです


本丸の南側は公園となっています。
その城塁寄りが細長い池になっています。
この池は堀跡です。

池の一番奥から、神社に上がる道があります。
雰囲気は虎口っぽさがありますが、図には描かれていません。

亘理城は移築された門が現存しています。
その1つが、専念寺の山門です。 https://www.google.com/maps/d/view?mid=1vIS59XSYonBY0JT1Y0ceuN9-Pws&ll=38.03114,140.85469&z=19" style="color:#ff0000" target="_blank">→地図
元々は扉があったようですが、雰囲気があります


もう1つ、常因寺(亘理町祝田)にも移築門があったのですが・・・
訪ねてみると、本堂がピカピカの新築でした。
2011年9月撮影のストビューでは、石灯篭の所に門が写っています。
どうやら、ここの移築門は無くなってしまったようです。
経緯が気になったので色々ググってみました。
移築門について書かれたものは見つかりませんでしたが・・・
東日本大震災により、本堂は柱が数本折れ「全壊」判定。
本堂再建はそのためだったようです。
◆歴史◆
1548年頃、亘理元宗により築かれました。
亘理元宗は、伊達稙宗の12男です。
亘理家には兄・綱宗が先に養子に来ていましたが、天文の乱で討死。
伊達稙宗はあらためて亘理家に養子を送りました。
当時の当主・亘理宗隆は、天文の乱では伊達稙宗に味方していました。
1548年に天文の乱が終結すると、亘理宗隆は隠居し家督を譲りました。
家督を継いだ亘理元宗が、新たに築き居城としたのが亘理城でした。
亘理元宗は父の没後は、相馬盛胤とともに伊達晴宗と戦ったようです。
共同戦線を張って伊達軍と戦い、伊具郡の金津城を得ています。
伊達晴宗の隠居後は甥の伊達輝宗に味方し、対相馬戦を指揮しました。
1591年、片倉景綱が城主となりました。
亘理元宗は遠田郡涌谷へ移り、片倉景綱が城主となりました。
片倉景綱は超有名なので、詳細は書きませんw
亘理城主の時は、文禄・慶長の役や関ヶ原の戦に出陣しています。
1602年、伊達成実が城主となりました。
片倉景綱は関ヶ原の戦で上杉家から奪った白石城へ移りました。
代わって城主となったのが、出奔から帰参した伊達成実でした。
伊達成実が1598年に伊達家を出奔した理由は、今も不明のままです。
復帰後は伊達政宗との関係も良好で、一門第二席に列しています。
以後、亘理伊達家と呼ばれ、代々亘理城を居城としました。
1868年、廃城となりました。
1615年の一国一城令以降は「亘理要害」と呼ばれていました。
明治時代になり、戊辰戦争で仙台藩は新政府軍に敗れました。
その降伏式が行われたのが、ここ亘理要害でした。
亘理藩は敗戦により、領地の99.99%以上を没収されました。
藩主・伊達邦成は活路を見出すべく、数百名を連れて北海道へ移住。
命運を賭けた開拓は功を奏し、伊達市の礎を築きました。
所在地:宮城県亘理郡亘理町旧館(亘理神社・亘理高校)
宮城県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント