2019/05/16
蓑首城/宮城県山元町
蓑首城は江戸時代は坂元要害と呼ばれ、城跡に神社と小学校があります。訪問日は2017年8月5日です。

坂元小学校が見えるここは、すでに城内です。
右端に見える白い標柱には「みの首城」と書かれています。
小学生が通る道ですからねw
で、右側の草の生えている所が三の丸跡の土塁跡です。

土塁跡には、土が盛られています。
本物はこんなに低くなかったと思いますが・・・
雰囲気は感じられます


ここに立派な四阿風の建物があります。
実はこれ、現存する大手門です。
元々は扉があったそうですが、大正時代に無くなったそうです。

小学校前を通り過ぎ、一番奥が本丸のあった神社です。
その入口ですが、門の跡っぽい雰囲気がしっかりあります。

本丸への登り口です。
お城の入口だけあって、まっすぐではありません


本丸は坂元神社の境内で、かなり広いです。
あまりゴチャゴチャとしておらず、すっきりしています。
真ん中にある白い立て板は説明板です。

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その説明板に載っている図です。
入口は3か所ありますが、本来の入口はさっきの所っぽいです。
社殿の右側には、堀が2本描かれています。

まずは社殿脇の堀から。
小さく描かれていますが、かなりの規模です


小さい方の堀の奥には、けっこういい規模の土塁があります。

土塁の裏には、かなり大きな堀が

飛び降りたらタダでは済まない高さです。

堀底に下りてみました。
駐車場脇から回り込めば、滑落しなくて済みますw
木々が茂って暗いので、真夏でも下草がありません。
◆歴史◆
1572年、坂本俊久により築かれました。
坂本氏は亘理氏の庶流です。
元々は内陸部の新城山城を居城としていました。
1570年に坂本隆俊が愛宕山城を築き居城を移しました。
しかし、翌年相馬軍に攻められ坂本隆俊が討死。
跡を継いだ坂本俊久は、愛宕山城が不吉として新たに城を築きました。
坂本氏は相馬氏と同族ですが、この時期は伊達輝宗に従っていました。
坂本俊久の子・定俊は、宗家である亘理重宗の娘を正室に迎えました。
宗家とはいっても、亘理重宗は伊達稙宗の孫ですw
1589年に伊達政宗が相馬家から新地城を奪うと、亘理家に与えました。
この新地城の城代に坂本定俊が任命されました。
新地城がなぜ「蓑首城」と呼ばれたのか、わかる気がしますw
1591年、亘理家が遠田郡涌谷城へ移ると、坂本定俊も遠田郡へ移りました。
城主がコロコロ代わりました。
坂本定俊が移った後、浜尾行泰が城主となり城を改修しました。
宿敵・相馬家がすぐ南におり、油断できない場所ですからねw
その次の城主は黒木宗俊です。
黒木宗俊は1580年に相馬家から伊達家に寝返った人です。
地理的にも元居た黒木城に近く、相馬家を警戒しての配置と思われます。
その次の城主は津田景康です。
津田景康は1595年に与えられた名で、元は湯目姓でした。
伊達政宗が豊臣秀次事件に巻き込まれた際、豊臣秀吉に直訴した人物です。
これが功を奏し、伊達政宗の処分を解くことに成功しました。
直訴をした場所が、伏見の津田が原という所だったそうです。
伊達家では奉行職に任じられましたが、孫が・・・w
1616年、大條宗綱が城主となりました。
1615年の一国一城令以降、伊達家では主要な城を「要害」と改名しました。
名前を変えただけで、中身は全く一緒ですw
蓑首城もこれに該当し、坂本要害に名を改めました。
大條氏は伊達一族で、南北朝時代の当主・伊達政宗の弟を祖とします。
以後、明治時代の1869年に廃城となるまで大條氏の居城となります。
坂本の地名は1644年に「坂元」に改められ、現在に至ります。
坂「本」氏が築いたのになぜ「元」?は、これが原因でした。
所在地:宮城県亘理郡山元町坂元館下(坂元神社・坂元小学校)
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