2019/05/15
角田城/宮城県角田市
角田城は田手氏、石川氏ら伊達一門の城でした。訪問日は2017年8月5日です。

角田城跡は現在、主に角田高校となっています。
生徒がワイワイ居ると見づらいと思って朝駆けしました。
写真を明るくしましたが、時刻は朝5時12分ですw
城キチは早起きなんです

ここは城址碑だけ撮れればいいやと思っていましたが、見当たらず。
後々調べ直したら、どうやらこの門の中にあるようです


そうとも知らず、城跡の痕跡を求めて周りを徘徊。
高校の敷地は、周囲よりも高くなっています。

高校の前の道沿いには、こんな感じで用水路があります。
地図で見ると、高校・中学の周りをグルっと囲んでいます。
どうやら、外堀の痕跡のようです。

城址碑・・・どこ・・・だ~と、出来るだけ高校の近くを徘徊。
西側の住宅地から高校沿いに入り込み、城塁を捉えることは出来ました。

しかし、以後は撮れ高ほぼゼロ。
ここは3/4周まわった角田中学校の正門前です。
先ほどの用水路がここにも巡っています。

最後の悪あがきは移築門。
角田市郷土資料館の蔵の右脇にあります。
場所はhttps://www.google.com/maps/d/view?mid=1uU7NcyDrrQ4Zs0kjBD-5HwuB5HY&ll=37.97097,140.78477&z=19" style="color:#ff0000" target="_blank">ココです

◆歴史◆
鎌倉時代は武石氏の支配地域でした。
武石氏は千葉一族で、相馬氏の祖とは兄弟でした。
奥州藤原氏討伐後の1189年、武石胤盛が伊具郡などの地頭となりました。
武石氏は亘理城を本拠とし、のちに亘理氏に改姓しています。
1381年、伊達氏の領地になりました。
伊達宗遠と亘理行胤が戦い、伊達氏の領地となりました。
とあちこちで紹介されますが、1377年に伊達政宗が家督を継いでいます。
この頃に刈田郡や柴田郡、出羽国の置賜地方を版図に加えました。
伊達氏は南北朝時代に一時衰退しましたが、一気に勢力を回復しました。
伊達政宗は伊達氏中興の祖と呼ばれ、後世、子孫が同じ名を名乗っています。
天文の乱後、田手実烈により城が築かれました。
田手氏は伊達氏一門で、元々は伊達崎姓を名乗っていました。
しかし、宗家と紛らわしいという事で、田手姓に改めた家系です。
田手実烈は、天文の乱(1542~48年)で伊達晴宗に味方しました。
その戦功として、角田一帯を与えられました。
田手実烈の子・宗光は、1563年頃から伊達輝宗と対立しました。
この対立で伊達輝宗は田手宗光を攻め、伊達晴宗が仲裁しようとしました。
その伊達晴宗を伊達輝宗が攻撃したため、父子の争いが始まりました。
伊達稙宗が1565年に没すると、田手宗光は相馬盛胤・亘理元宗と連携。
1584年まで角田城に居たものと思われます。
田手宗光のその後は?ですが・・・
子の田手宗時は父に従わず、伊達方でした。
その田手宗時は、1582年に相馬軍との戦で戦死。
田手宗実が継いだものと思われます。
1591年、伊達成実が城主となりました。
田手宗実が、大崎旧臣が不穏な動きをする柴田郡小泉に移されました。
角田城には、没収された二本松城に居た伊達成実が入りました。
伊達成実は伊達実元の子で、各地の戦で大活躍しました。
しかし、1595年に突然出奔しました。
今もってその理由は不明なままです。
角田城は伊達政宗に命じられた屋代景頼に攻められました。
伊達成実家臣団は抵抗したものの落城し、角田城は接収されました。
1598年、石川昭光が城主となりました。
石川昭光は伊達輝宗の弟で、三芦城の陸奥石川家を継いでいました。
1574年に白河結城氏に敗れて以降、佐竹家に従ったため伊達家と敵対。
1589年の蘆名家滅亡後は、伊達政宗に従っていました。
1590年の奥州仕置きで領地を没収されると伊達家に復帰。
石川昭光は一門筆頭に列せられ、志田郡松山城を与えらえていました。
1598年、石川昭光が角田城主となると、明治まで石川氏が居城としました。
所在地:宮城県角田市角田牛館(角田高校・角田中学校)
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