2019/04/30
柴小屋城/宮城県丸森町
柴小屋城は信夫佐藤氏の末裔・小斎佐藤氏の城でした。訪問日は2016年8月4日です。

柴小屋城は伊具三城の一つである小斎城と考えられています。
そうだ!と断定されている城キチ諸兄は居ませんが・・・
丸森町観光案内所様のサイトでは、伊具三城の旅でここを訪ねています。
他にそれらしい城跡が見当たらないので、そうなのかもしれません


という事で、ここも家紋入りの幟が立てられています。

幟の奥に、山中へと誘う山道があります。

この道は堀底道のようになっています。
雨が降ったら大変な事になりそうですが

雨または雨上がりには訪ねない方が良さげです。

堀底っぽい道を登り切ると、目の前に堀切が現れます。
手前には「←柴小屋城址」、堀切の所には「三の丸跡」とあります。
普段の私なら、まず目の前のご馳走を平らげるのですが・・・
後から見に来ようとしたのか、この堀切を見ていません


本丸方向へ進むと、城塁の上に鳥居があります。
ここを上がると神社のある主郭に着きます。

途中に腰曲輪の馬屋跡があります。
もしかして、さっきの城塁を馬が登ったのでしょうか?
物理的な配置を考えると、三の丸から木橋を渡れば来れそうです。
その木橋があったであろう堀切を見忘れていますけど


階段はさらにクネクネと続きます。

登り切った所に八重垣神社の社殿があります。

奥には広い本丸があります。
切り株がコロゴロあるので、曲輪の平面が見えるよう伐採したようです。

ちょうど真ん中辺りに、城址碑と説明板があります

この説明板には「柴小屋城、西舘城を含んだ小斎城」とあります。
柴小屋城は小斎城を構成する一部分だったという事ですね!

本丸を奥まで進むと、陸橋跡があります。
向こう側に見えるのが二の丸です。

陸橋の下には、V字形の堀切様がいらっしゃいます


二の丸は特にモニュメントはありませんが、綺麗に整備されています。

二の丸の一番奥まで進むと、搦手門跡の立て札があります。

ここから下りていく階段があります。
某大御所様はここを下りるのに苦労したと書かれています。
ここ数年の間に整備されたようです。

もちろん、横顔を拝みました。
この向こう側にも城域は続きますが、草深かったためパスしています。

二の丸の城塁脇を通り、元来た堀底っぽい所に戻ります。
その途中、二の丸側を振り返った光景です。
ここには土塁のある腰曲輪があるはずですが・・・
自分が辿った記憶がかなり薄れてしまっています。
奥の立て札に「搦手門跡」と書かれているので、右は二の丸と思います

次の写真は登ってきた堀底っぽい所でした。
もうちょっと草の無い時期にじっくり見直したい城跡です。
◆歴史◆
小斎佐藤氏の城でした。
小斎佐藤氏は、伊達家臣となった佐藤為信を祖とします。
その城主となった時期がチョットあやふやです

元居た相馬家側では、1566年に小斎城主になったと書かれています。
しかし、こちら側では1576年頃に小斎城主になったと紹介されます。
伊達家との戦で手柄をたてたのが、城主となったきっかけです。
某大聖典では1566年から相馬領とあるので、そっちを採用しときます。
佐藤為信は佐藤好信の子で、佐藤忠信の子孫と称していたそうです。
ということで、ルーツは信夫佐藤氏です。
経歴は複雑で、父・佐藤好信は元は岩城家の家臣でした。
相馬家に鞍替えして活躍し、軍奉行にまで昇進しました。
しかし、1579年に讒言により失脚し、失意の内に病で世を去りました。
1581年、佐藤為信が伊達家に寝返りました。
伊達輝宗と相馬盛胤が伊具郡で争う中、佐藤為信が寝返りました。
伊達家からの調略があったのは想像に難くないのですが・・・
伊達家に寝返る際に、父を讒言で陥れた郡左馬助を斬っています。
経緯は?ですが、それっぽいのは、援軍に来た所を斬ったようです。
何とか我慢して来たのが、目の前に現れてプッツンしたのでしょうか?
相馬軍が制圧した伊具郡南部は、平野部が南北に長くなっています。
小斎がその出口に当たり、ここが寝返ると相馬家的には苦しそうです。
実際にこの3年後、相馬家は伊達家に伊具郡を返還しています。
佐藤為信は伊達家から、そのまま小斎の地を与えられています。
1615年、廃城となりました。
1591年に佐藤為信が戦死したものの、小斎城は佐藤勝信が継ぎました。
一国一城令で廃城となりましたが、明治まで小斎佐藤氏の領地でした。
今でも、4代目の佐藤清信が始めた鹿島神社の奉射祭が続いています。
所在地:宮城県伊具郡丸森町小斎北町場
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