2019/04/29
丸山城/宮城県丸森町
丸山城は伊達稙宗の隠居城として有名です。訪問日は2016年8月4日です。

丸山城はよく「丸森城」と紹介されているお城です。
私は現地での表記を採用するので、「丸山城」と紹介します。
さすがに歴史的に有名なだけあって、国道の交差点脇に案内があります。
ここから城跡まで、この幟が目印となり迷いませんでした


道の突き当りがココです。
すでに城跡らしさが漂っています。
右側の高い所は曲輪です。

すぐに堀切が現れました。
先ほどの右側の曲輪は、この写真でも右側です。
城の中心部へは、写真の左方向への道を進みます。

というか、堀切の所から既にあの幟が見えますw
その脇にある白い標柱はまさかとは思いましたが・・・

本丸と書かれています。
かなりあっけないですが、城の規模はそれほど大きくはありません。

本丸に辿り着くと「あぁ、もう終わりか」なんて気になりますが・・・
奥の方を見ると、城キチレーダーがビンビン反応します。
この奥から、とてつもない強い何かを感じました。

近づいてみると、はっきりした土橋が現れました。
この両脇は堀があります。
土橋=進め♪ですw

奥には神社があり、その手前に石碑と説明板があります。
ここが詰めの丸的な曲輪のようです。
落ち着いた雰囲気は、もしかしたら伊達稙宗公の屋敷跡なのかもしれません。

この石碑は城址碑ではなく、伊達稙宗公の墓碑でした。
当時まだどのような人物だったのか知りませんでしたが・・・
もうちょっとしっかり手を合わせて来れば良かったです

◆歴史◆
1548年、伊達稙宗により築かれました。
伊達稙宗は周辺勢力に養子を送り込み、陸奥全体を支配しました。
しかし、その政策には家中の反対も多かったようです。
この軋轢が爆発したのが1542年で、嫡男・伊達晴宗に拉致されました。
伊達稙宗は桑折西山城に監禁されましたが・・・
側近の小梁川宗朝に救出されると、親子で戦を始めました。
これが天文の乱で、序盤は伊達稙宗方が優勢でした。
しかし、1547年に蘆名盛氏が離反すると、形勢が逆転。
次々に伊達晴宗方に寝返る勢力が続き、将軍の仲介により和睦しました。
和睦とは言ってもほぼ伊達稙宗の敗北であり、隠居を強いられました。
居城の桑折西山城も破却されたため、丸森に新たに隠居城を築きました。
1565年、相馬家が領有権を主張しました。
伊達稙宗は遺言で、娘婿の相馬家に伊具郡を譲ると遺言しました。
その伊達稙宗が没したことで、相馬家が伊具郡の割譲を伊達家に迫りました。
稙宗さん、勘当こそしなかったものの、息子が嫌いだったんですねw
相馬盛胤は娘婿である相馬顕胤の子で、亘理氏とともに伊具郡へ侵攻。
そして1570年、ついに丸山城を攻め落としました。
丸山城は相馬家臣の門間大和守が城主となりました。
門間大和守がどのような人物だったのかは?です

説明板では「門間」表記ですが、たぶん「文間」だと思います。
相馬家臣で「もんま」といえば、一門の文間氏がいました。
後に馬の字を許され「門馬」となり、通字も「経」に改められています。
以後、伊達政宗の代に至るまで、相馬・伊達両家による争いが続きました。
伊達政宗の初陣は1581年5月の相馬軍との戦でした。
1583年、伊達輝宗が奪還しました。
相馬・伊達両軍による戦は果てしなく続いていました。
そこへ佐竹・蘆名・田村氏が連名で調停に乗り出しました。
田村家当主・田村清顕は自ら相馬家を訪ね、相馬義胤を説き伏せました。
この調停の結果、伊具郡は元通り伊達家の領地に戻りました。
丸山城は黒木宗俊が城主となりました。
黒木宗俊は元・相馬家臣で、1580年に伊達家に寝返った人物です。
1601年、廃城となりました。
黒木宗俊が亘理郡へ移った後、高野親兼→大條実頼が城主となりました。
大條実頼は伊達一門で、後の坂本大條家の祖・大條宗直の弟です。
1601年に新たに鳥屋館を築き移ったため、丸山城は廃城となりました。
所在地:宮城県伊具郡丸森町新町
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