2019/04/28
城ノ倉城(居館部)/福島県川俣町
城ノ倉城は相馬領・田村領に通じる要衝の地にありました。訪問日は2016年8月3日です。

新旧河股城の旧ですが、某大聖典に合わせて「城ノ倉城」で紹介します。
城ノ倉城は、かなり広大な山城です。
日常の政務や居館などは麓にあり、北東に詰城があります。
真夏だったので、私が訪ねたのは居館部分のみです。
居館部の主な所は現在、川俣高校の敷地となっています。
流石に中には入れないので、正門前から拝みました。
この段差が、なんとなくそれっぽい雰囲気を醸し出しています


居館部の一番高い所にあるのが諏訪神社です。
こちらは見ることが出来ます。
諸兄は詰城を紹介されていますが、神社部分はほぼスルーです。
それはそれでニッチ♡ということで、書くことにしました。
高校の正門前から細道を進むと、山に登る道があります。
白コンクリートの農道っぽい道で、かなりキツイ登り坂です。
しかも九十九折れだったので、バイクでは恐怖を感じました。
それでも途中で置いて行く訳にもいかず、最後まで登りました。
その道の神社へ入る所がココです。
何となくですが、往時からの虎口だったように見えます。

諏訪神社の社殿です。
山上ですが、草が無くきれいに整備されています。

おそらくここが主郭だったんだろうと思われます。
ちゃんと平らに馴らされており、広さも十分あります。
ここに神社を建てるためにやった、という広さではありません。

端には土塁が見られます


川俣高校からはそれ程高低差は無いのかもしれませんが・・・
南側斜面に付けられた参道はこんな感じです。
かなりの高さがあり、踊り場の所は帯曲輪があるように見えます。
◆歴史◆
南北朝時代に争奪戦が繰り広げられました。
築城時期は不明ですが、南北朝時代にはすでにありました。
記録に残る所では、伊達氏領からスタートします。
1335年、南朝方のボス・北畠顕家が大軍を率いて西上しました。
この留守を衝いて、北朝方に一時占拠されました。
この北朝方が誰なのか???ですが、地理的には信夫佐藤氏かもしれません。
1337年、南朝方の相馬胤平が河股一帯を北朝方から奪還しました。
相馬宗家は北朝方ですが、一部南朝方だった人物もいたようです。
城ノ倉城は北畠行定が居城としたようです。
その後、南朝方は北朝方に寝返る勢力が続出しました。
そして1347年、奥州管領の吉良・畠山氏により霊山城が陥落。
南朝方であった伊達行朝は、この頃に没しています。
次の当主は伊達宗遠ですが、その活動時期まで若干の空白時期があります。
南朝方の伊達家が一時的に衰退するのはわかるのですが・・・
お隣で北朝方だった信夫佐藤氏は、1352年に伊勢に移りました。
この頃の信夫郡・伊達郡がどうだったのか、よくわかりません

再び伊達氏がこの城を奪還するまでの間、色んな名前が登場します。
室町幕府と鎌倉公方の争いの中で、「河股」「川俣」姓の人物が登場。
さらにその後、川俣には田村氏、その後、二階堂氏が攻め取っています。
二階堂氏の時代は、草野一郎左衛門が守将を務めました。
1468年、伊達成宗が奪還しました。
伊達成宗は、桜田久綱に命じて城ノ倉城を奪還しました。
翌年正月、桜田久綱が留守の隙に、草野氏が一時城を占拠しました。
しかし、桜田久綱が戻ると再び奪還しています。
1584年、廃城となりました。
他の城と廃城時期が違うのは、新たな城を築いたためです。
この年、伊達輝宗が隠居して伊達政宗が家督を継ぎました。
すると、それまでの養子融和政策から、軍事拡張政策に一変しました。
河股城は、塩松地方を攻略するための拠点として築かれたと考えられます。
その後、河股が再び歴史に登場します。
1600年、上杉景勝と伊達政宗が戦いました。
この時、伊達政宗は桜田基親に命じて河股に侵攻させました。
そのため、福島や梁川の上杉軍は身動きがとれなくなりました。
この隙に伊達軍は、白石城攻略に成功しました。
白石城を攻略すると、桜田基親は居城の駒ヶ嶺城へ退却しています。
所在地:福島県伊達郡川俣町飯坂字諏訪(川俣高校・諏訪神社)
福島県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント