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鎌田舘/福島市

鎌田舘は大和源氏・鎌田氏の城でした。
訪問日は2016年8月3日です。

【1】鎌田城

城跡には鎌秀院というお寺があります。
このお寺、前身は鎌田氏初代が建立したのだそうです。
初代・鎌田信治の法名がお寺の名前となっています。

【2】鎌田城

上の写真に写っている城址碑です。
お寺の境内にあるのはあまり見かけません。
城主様が開山したというご縁なのかもしれません。

【3】鎌田城

境内には立派な説明板もあります合格

【4】鎌田城

平城の宿命で、かなりの部分は消滅しているそうですが・・・
境内の西側と南側に立派な土塁が残っています。

【5】鎌田城

境内は全体的に周囲よりも少し高くなっています。
ここはお寺の東側の駐車場の入口です。
鎌田舘は2つの郭から構成されていました。
江戸時代には東側が田畑になっていたそうで・・・
土塁と江戸時代の記述から、東側に二郭があったのかもしれません。

【6】鎌田城

西側の外側から見た土塁です。
手前の川は耳取川で、八反田川の支流です。
地図を見ると、東に阿武隈川、西にこの耳取川。
南に松川、北に八反田川が流れており、川に囲まれています。
往時は湿地帯に囲まれ、難攻不落だったのかもしれません。


◆歴史◆

鎌田氏の城でした。

鎌田氏は、1262年に大和国から来た宇野信治を祖とします。
宇野信治は大和源氏で、通字から大和源氏の嫡流と思われます。
大和の名族がなぜ陸奥に移って来たのか、その理由は謎ですあせる

以下、一城キチの邪推ですが・・・
大和源氏は平安時代から、たびたび興福寺と対立して来ました。
初代・源頼親は1050年、興福寺との争いが原因で土佐に流されています。
2代目の源頼房も興福寺と争い、1076年に肥前に流されました。
その孫で4代目の源頼治は1095年、強訴撃退の際に神輿を射て佐渡へ。
6代目の宇野親治も1145年、興福寺と戦っています。
宇野親治は保元の乱で平家に敗れ、囚われの身となりました。
しかし戦後、興福寺を牽制するために、大和へ戻されています。
その後は衰退し、戦国時代には庶流の越智氏が栄えました。
越智氏に圧迫されたか、何かやらかして再び流されたのかもしれません。

当時の鎌田城は信夫郡にあり、松川より北でした。
という事は、信夫佐藤氏の支配地域だったはずです。
信夫佐藤氏は、南北朝時代までは信夫郡にいました。
宇野氏を調べると、戦国時代に伊達氏に従ったようです。
裏を返せば、それまでは従っていなかった、という事になります。
信夫佐藤氏の片腕として伊達氏と戦っていたのかもしれません。
伊達家の内紛である天文の乱で、鎌田家は敵味方に分かれました。
勝利した伊達晴宗に味方した鎌田氏は、杉妻城の城代を務めました。
1591年、伊達政宗の岩出山転封の際、鎌田氏も従い廃城となりました。


所在地:福島市鎌田字古舘(鎌秀院)

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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