2019/04/27
大枝城/福島県伊達市
大枝城は阿武隈川北岸にあった、大枝氏の城でした。訪問日は2016年8月4日です。

大枝城は、周辺に案内があります。
東を走る県道沿いの案内から脇道に入り、途中にまた案内があります。
ここからは砂利道なので、バイクの私は歩きました。
クルマなら、城跡まで乗ったまま行けます。
・・・というココ、実は二郭の中でした


家紋入りの幟、カッコイイですね

自分の家の家紋知らないので、こういうの憧れます。

砂利道の途中に、このような案内がありました。

緑一色だったので、案内が無ければ気付かなかったと思います。
堀底には紫陽花が植えられており、かなり底上げされています。

土塁もビッシリと草で覆われていましたが、流石にわかりました♪

辿り着いた主郭です。
植えられている木は桜です。
お花見会場になりそうですね


中心には個性的な城址碑があります。
彫られている文字は「綴麻森袖崎城址」です。
フリガナも書くと「綴(つつ)麻(そ)(ヶ)森袖(ヶ)崎城址」です。
「つつそがもりそでがさき」と読むようです。

目の前に阿武隈川が流れ、向こう側が梁川城です。
川を挟んで2つの城が向き合っている感じです。
この位置関係だと、こっちが梁川城を攻めるための付城に見えます。
ただ、どちらも伊達家の城でした。
地図を見ると、信達平野の北東の角に2つの城があります。
伊達家領地の北東隅にあり、そっち側に対する備えにも見えます。
そっち方向で敵対しそうな勢力といえば相馬家ですね。
◆歴史◆
大枝氏の城でした。
大枝氏は伊達家8代当主・伊達宗遠の次男・宗行を祖とします。
兄が1353年生まれなので、その頃の人物です。
築城年は定かではありませんが、1394年と紹介されることが多いです。
兄の伊達政宗は山形県南部の置賜地方を攻略し、勢力を拡大しました。
梁川の北東は、千葉一族の武石氏・相馬氏の勢力圏だったようです。
その勢力境でもあったので、弟に守備を任せたものと思われます。
1591年、廃城となりました。
伊達政宗の岩出山転封に伴い、信夫郡・伊達郡が没収されました。
これに伴い大枝宗直が伊具郡大蔵へ移され、大枝城が廃城となりました。
この頃に大枝氏は大條(おおえだ)に改姓しています。
大條氏はその後数ヶ所を経て、最終的には亘理郡の坂元城主となります。
明治時代に伊達姓に復姓し、子孫にはアノお笑い芸人も居ます。
1600年、伊達軍が陣を置きました。
反徳川家康の兵を挙げた上杉景勝に対し、伊達政宗が出陣しました。
両者は福島を中心に戦い、松川合戦と呼ばれています。
この時、上杉方の梁川城を攻めるため、大枝城跡に片倉景綱が入りました。
梁川城内の横田大学が内応する筈でしたが・・・
事前に計画がバレてしまい、横田大学は城内で幽閉されました。
伊達軍はそれでも攻めましたが、上杉軍が梁川城を守り切っています。
所在地:福島県伊達市梁川町東大枝字舘
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