2019/04/21
大鳥城/福島市
大鳥城は信夫郡司・佐藤氏の城でした。訪問日は2016年8月3日です。

城跡は現在、舘ノ山公園となっています。
ここは公園の西側にある矢庫との間の道です。
曲輪と曲輪の間であり、堀跡のようです。

矢庫側の土塁上に、案内の標柱があります。
このすぐ脇から、矢庫の曲輪に入ることが出来ます。

矢庫の曲輪内部の様子です。
名前の通りの用途だったようで、それ程広くはありません。
草木に覆われてわかりづらいのですが、土塁に囲まれています。
この奥に堀切があるそうなのですが・・・
藪の中だろうと諦め、見ていません。
ストビューで見たら、矢庫沿いの道を奥へ進むとよく見えます。
当時はまだ、ストビューは都会しか見られませんでしたからね・・・
やっちまいました


矢庫と道を挟んで、大鳥城の主郭がありました。
内部は全面芝生張りで・・・どこかで見たのとソックリな光景ですw

公園の片隅に、小さなお社と石碑が並んでありました。
これは大鳥神社で、佐藤基治と継信・忠信兄弟を祀っています。
お社が小さいのは、世を憚ったためでしょうか。

主郭は外周を道路で囲まれています。
帯曲輪か横堀で囲まれていたのかもしれません。
そうでないかもしれませんが・・・わかりませんw
ここは公園の北側で、トイレのある駐車場です。

ここに説明板があります。
駐車場の中ではなく、外の道沿いにありますw
通る車は少ないので、あんまり撥ねられる心配はありませんが・・・
設置場所はもうちょっと、ね♡
◆歴史◆
信夫佐藤氏の城でした。
築城時期は不明ですが、平安時代に信夫佐藤氏が居城としていました。
信夫佐藤氏は信夫郡司で、奥州藤原家に仕えていました。
しかしルーツは藤原秀郷で、左衛門尉の官職から佐藤姓となりました。
同族には、歌人・西行こと佐藤義清がいます。
ということで、元々は上方の武士だったようです。
1189年、鎌倉軍に攻められました。
平家を討伐した源頼朝は、腹違いの弟・源義経を討伐しました。
源義経は、若い頃に藤原秀衡を頼り、奥州に居ました。
その経緯は書き始めると長くなるので省きます。
源義経が兄・源頼朝を助けるため、鎌倉に行きました。
この時に付けられたのが、佐藤継信・忠信兄弟です。
2人とも義経四天王に数えられた剛の者です。
兄弟は信夫郡司で大鳥城主・佐藤基治の子でした。
佐藤継信は平家との屋島の戦で戦死。
佐藤忠信は源義経が追討令が出た際、吉野で陽動作戦を行い討たれました。
源頼朝は、藤原泰衡が源義経を匿っているとして、討伐しました。
鎌倉軍は3手に分かれ、本隊は中通りを進みました。
佐藤基治は石那坂の上に陣を構え、本隊を迎え撃ちました。
この時、鎌倉方として戦ったのが常陸入道念西です。
戦は鎌倉方が勝ち、大鳥城も落城。
佐藤基治は討ち取られたとも、戦後許されたとも伝わります。
だたし、領地は大幅に減らされ、伊達郡が没収されました。
その伊達郡は、伊達氏の祖・常陸入道念西の領地となりました。
大鳥城のその後はわかりませんが、佐藤基治の子が継いだと思われます。
南北朝時代には、12km南の大森で佐藤性妙が北朝方として活動しました。
佐藤性妙は佐藤基治の弟の子孫です。
大鳥城が宗家、大森に分家が居たという事かもしれません。
佐藤性妙は1352年以降、陸奥での記録が無くなります。
この頃に伊勢に移ったと考えられています。
城の構造からしても、この時期までには廃城になったと思われます。
所在地:福島市飯坂町舘ノ山(舘ノ山公園)
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