2019/04/19
土合舘/福島市
土合舘は八丁目城の支城で、現在は公園となっています。訪問日は2016年8月3日です。

城巡りでは駐車場に困る事が多いのですが、ここは立派なのがあります。
立派すぎて、下手をすると貸し切りになりそうですw

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駐車場だけでなく、案内図も立派なのがあります。
縄張り図ではありませんが、配置がとてもわかりやすく描かれています。
わかりやすくというより、色々勝手に妄想を膨らませる方ですけど


まぁでも、下の方は「ここ城跡?」という位に普通の公園です。

普通の公園と違う所は、歴史が刻まれた岩が落ちている事です。
小さな文字でビッシリ書かれています。
あとで要所要所をパクらせて頂きます


案内図右上のグルグルにある観音像です。
叶う、らしいです(*´▽`*)
背後の壁のような土盛りは、おそらく土塁と思われます。

城としての主要部は、もっと奥にあったようです。
案内図左上の神社へ向かうと、こんな感じで段差があります。
切岸を利用した滑り台、城跡あるあるです。

その上の段も、一番奥が段差になっています。
こんな感じで、曲輪が段々になって続きます。

さらに奥へ進むと、ひと際高い段差があります。
元々は道が無かったのか、段差を斜めに登った踏み跡があります。

一番高い所にある曲輪の入口です。
右側に土塁が残っており、どうやら元々虎口だった所のようです。

主郭と思しき曲輪にあるのが、駒形三社神社です。
薄暗い木陰に神社があると、どうしてもそれっぽく見えてしまいます

◆歴史◆
土合舘は八丁目城と密接に関わっていました。
そのため、ここではほぼ八丁目城の歴史を書いています。
天文の乱の際に築かれました。
1542年に始まった天文の乱で、伊達稙宗が八丁目城に一時在城しました。
この時に八丁目城の城主の父・清野備前守により土合舘が築かれました。
そのため「隠居城」とも呼ばれたそうです。
城の造りは堅固で、八丁目城を西館、土合舘を東館とも呼びました。
この2つの城が連携することで、より強固になったそうです。
天文の乱は将軍が仲裁し、伊達稙宗が隠居することで終結。
その後、伊達稙宗と争った伊達晴宗に攻められ、清野遠江守は自害しました。
八丁目城は堀越宗範が城主となりました。
1570年、堀越宗範が畠山家に寝返りました。
伊達稙宗・晴宗父子の争いでは、堀越宗範は伊達晴宗方でした。
伊達稙宗方だった清野遠江守に代わって八丁目城主となっていました。
しかし、伊達家と敵対していた二本松の畠山義国に寝返りました。
何故だろう?と色々ググってみましたが、直接的なものは何も出ず。
推測ですが・・・
伊達家では、伊達晴宗が子の伊達輝宗と対立していました。
おそらく、伊達輝宗から何らかの圧迫があったと思われます。
時期的には伊達輝宗が中野宗時をはじめ、多くの家臣を処罰していました。
家中を掌握した伊達輝宗は、周辺勢力との融和に努めて勢力を拡大します。
1574年、伊達実元に攻め落とされました。
伊達実元は伊達稙宗の三男で、伊達晴宗の弟です。
越後の上杉定実の養子になりそびれた時宗丸が伊達実元です。
父と兄の争いでは父に味方し、乱後は兄に降伏してその右腕となりました。
堀越宗範を破ると、八丁目城と土合舘は伊達実元の城となります。
伊達実元は大森城主でしたが、1583年に隠居後は八丁目城を居城としました。
1587年、伊達実元は八丁目城で没しました。
1591年、廃城になったものと思われます。
伊達実元の子で二本松城主・伊達成実が、角田城へ移されました。
これは、伊達政宗が葛西大崎一揆を扇動したのがバレたのが原因でした。
二本松一帯は蒲生氏郷の領地となり、この時に廃城になったようです。
所在地:福島市松川町字土合舘(土合舘公園)
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