2019/03/29
本宮城/福島県本宮市
本宮城跡は安達太良神社となっています。訪問日は2016年8月2日です。

本宮城は平山城で、城のあった小山は丸々神社の境内となっています。
ということで、真正面から攻めました。
真正面とは言ってもそれは神社の真正面で、市街側に参道があります。
鳥居が無ければ、総石垣の城のようにも見えます。

神社の参道だけあって、どこまでも真っすぐですw
城だった時の道がきっとどこかにあるんでしょうけど・・・

頂上のすぐ手前に一息つく踊り場的な所があります。
これ、帯曲輪ですよね?


ラストスパートで登り切ると、御殿風の建物が

神社ですけど

神社の背後が主郭です。
真夏ですが、草が刈られています。
私のような人種が定期的に訪れるのでしょうか?
そんな事のためとも思えませんが・・・
奥に白い板が見えます


ココはかなり開発されており、城跡らしさはあまり感じられません。
白い板は本宮城について書かれた説明板です


それでも、裏側は段差のある平坦地が公園となっています。
腰曲輪の面影は辛うじて感じられます。
◆歴史◆
応永年間(1394~1428年の間)に畠山満詮により築かれました。
畠山満詮は奥州管領・畠山国詮の次男です。
奥州管領とは言っても、別に任命された吉良貞家に敗れています。
この戦で生き残った畠山国詮は、領地である二本松に逃れました。
(普段は多賀城に駐屯していました)
畠山満詮は本宮一帯を分知され、その居城として築かれました。
子孫は鹿子田姓を名乗るようになります。
1532年、同族の川崎宗頼に奪われました。
川崎氏は畠山国詮の長男の子孫です。
畠山国詮の次に家督を継いだのは三男で、二本松氏となります。
川崎宗頼は本宮城を奪うと、以後は本宮姓を名乗るようになります。
当時の状況がサッパリわからないのですが・・・
この10年後に伊達家の内紛が奥州全体に飛び火した天文の乱が起きます。
この時に二本松家中でも両派に分かれ争いました。
最初は二本松宗家の命令で川崎宗頼が攻めたのかと思いましたが・・・
二本松宗家の後の重臣に、鹿子田姓の人物が居ます。
鹿子田・川崎両家が争い、敗れた鹿子田氏が本家を頼ったのかもしれません。
1545年、二本松義氏に攻め落とされました。
宗家の二本松義氏が、分家の本宮宗頼の居城を攻め落としました。
これは、伊達家の内紛である天文の乱によります。
二本松義氏は伊達稙宗に味方しましたが、本宮宗頼は伊達晴宗方でした。
本宮宗頼は戦死し、子の本宮直頼は岩城氏のもとへ逃れました。
後に二本松家の重臣に鹿子田姓の人物が現れますが・・・
本宮城はそのまま二本松宗家の城になったようです。
1585年、伊達政宗の拠点となりました。
二本松氏は1570年頃から蘆名氏の支配を受けるようになりました。
1579年、田村清顕に従っていた大内定綱が、独立を志向しました。
この時に大内定綱が仲介を頼んだのが二本松義継でしたが・・・
田村清顕との和睦は成らず、大内定綱も蘆名盛氏を頼るようになります。
蘆名盛氏は伊達輝宗と親しく、伊達輝宗は田村清顕と親しくしていました。
・・・という事で、パワーバランスにより衝突は無くなりました。
ちょっと長くなります

ということで、ザックリ書きます(`・ω・´)
1584年、蘆名盛隆が寵臣に殺される
→伊達輝宗は次男・小次郎に蘆名家の家督を継がせるため会津へ
→次男の後見に専念するため家督を嫡男・伊達政宗に譲る
→蘆名家の家督は佐竹家から来た養子・蘆名義広が継いだ
→伊達家と蘆名家が決別
伊達政宗が蘆名家に従っていた大内定綱を攻める
→大内定綱が二本松義継を頼る
→伊達軍が二本松城を攻める
→伊達輝宗の仲裁により二本松家が辛うじて存続
→二本松義継が伊達輝宗に謝意を伝えるため訪ねる
→伊達輝宗を誘拐し、二本松義継が二本松へ向かう
→途中で伊達軍が追いつき、伊達輝宗ごと二本松義継を銃殺
伊達軍が二本松城を包囲
→二本松家は全兵力を二本松城に集めて抵抗
→二本松家の危機に、佐竹家・蘆名家などの反・伊達派が集結
→人取橋の戦
→反・伊達派の主力・佐竹軍が突然撤退(後北条軍が後方かく乱)
→二本松領が伊達政宗の版図に加わる
人取橋の戦では、伊達政宗は本宮城を拠点としました。
以後も、伊達政宗が会津へ侵攻する際の拠点とします。
1589年、伊達政宗が蘆名家を滅ぼした頃、本宮城は廃城となりました。
所在地:福島県本宮市本宮字舘ノ越(安達太良神社)
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