2019/03/25
木村館/福島県郡山市
木村館は郡山東インターの南東にありました。訪問日は2016年8月1日です。

インターから一般道に出て脇道に入ってで、入口には案内があります。

そこには「古舘山見晴台」と書かれています。
一部見えるように消されているのは、きっと深い理由があるのかも(* ´艸`)

そこへ至る道は、我がレーサータイプのバイクが苦手な砂利道でした。
コロコロ小石の道ではコケたり止まれなかったりなので、歩きました。
四ツ脚のクルマであれば、問題なく普通に走れます。

登り切った所がココです。
私が事前に参照したサイト様では、ここに櫓風の展望台がありました。
それが綺麗サッパリ無くなっています。
先ほどの深い理由はそういう事だったんですねw

駐車場脇には、文字と図の入った超カッコイイ説明板があります


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銀色のはちょっとした光も拾って加減が難しいのですが・・・
何とか均一に撮ることが出来ました。
花曇り万歳ですヽ(*´▽`*)ノ
◆歴史◆
木村氏の城でした。
築城時期は不明ですが、城主として木村越中守が知られています。
現地の説明板によると・・・
1583年、田村清顕に攻められ落城しました。
と書かれています。
どうしてなんだろう?と思ってググってみました。
直接的な事件は出てきませんでしたが・・・
同時期に、田村清顕に従っていた大内定綱が独立しています。
これは岩城氏を攻めた際に田村家臣と大内家臣の争いが原因でした。
大内定綱は二本松義継や蘆名盛隆を頼って田村清顕と渡り合いました。
Wikipediaでは、木村越中守は二本松家に寝返ろうとしたとあります。
木村城は大内定綱よりも田村家に近い位置にあります。
もし大内定綱に同調していたら、先に攻められそうな位置にあります。
もしかしたら、ですけど

1590年頃に廃城になったと考えられています。
木村氏が滅ぼされた後は、田村家臣の橋本刑部が城主となりました。
1586年、田村清顕が没すると、田村家では後継者を巡って内紛が起きました。
田村清顕には男子がいませんでした。
はじめに目を付けたのが、田村家から正室を迎えていた相馬義胤でした。
相馬義胤は無主の三春城で仕切る事で、田村家を取り込もうとしました。
これに待ったをかけたのが、田村月斎や橋本刑部らの親伊達派でした。
この後、伊達政宗が三春城に入り、田村家は伊達家傘下となりました。
1589年、伊達政宗は蘆名家を滅ぼし、陸奥で覇権を握りました。
しかしその翌年、小田原を制圧した豊臣秀吉への臣従を余儀なくされました。
この時に、叛意が無いことを示すために多くの城が廃城にされたそうです。
木村城もこの時に廃城になったと考えられています。
所在地:福島県郡山市西田町木村字南(木村神社)
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