2019/03/22
駒ケ嶺城/福島県新地町
駒ケ嶺城は、仙台藩の浜通り最南端の城です。訪問日は2016年8月4日です。

城跡の入口にある神社です。
この周りは道が細く、駐車場もありません。
私はバイクなので適当に停められましたが。
どこに停めようかすごく悩んだのをよく覚えています。

神社から城跡へと続く堀底道です。
山城への道は、普通ならわかりづらくすると思います。
そのまま現代になり、私のような迷子の城キチが量産されています。
こうやって城跡まで続く道は、守備側の意図があっての事だと思います。
つまり、攻撃側がここを通ることで、守備側が有利になるのでしょう。
・・・と、コバエを頭にまとわりつかせながら、勝手に妄想してましたw
ここのコバエは、ハッカ油スプレーがあまり効きませんでした


堀底道を歩いていると、高みに向かってひと筋の道がありました。
城内へはここを上がって行きます。

上がってみると、広い曲輪に出ました。
その奥には、西館という曲輪の城塁が見えます。

西館内部の様子です。
広い曲輪の端に、しっかり土塁が付けられているのが見えます。
真夏ですが下草は無く、コバエがうざい以外は問題なく歩けます。

西館を奥へ進むと、土橋の向こうに虎口が見えます。
復元でないのにこれだけしっかり残っている虎口は、とても貴重です


結構普通に雑木林の中を歩いて来ましたが・・・
主郭は小ぎれいに整備されています。

ココには説明板と石碑があります。
石碑は文字が読み取れませんでしたが・・・
きっと城址碑に違いありません(+_+)v

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そして、ここには案内図もあります。
説明板にも書かれていましたが、別名は臥牛城といいます。
この別名、全国各地でよく見ます( *´艸`)

主郭の奥側の虎口です。
実はこの先にも曲輪があり、左下には大きな横堀もあるのですが・・・
顔の周りを飛び回るコバエに耐え切れずギブアップ。
一目散に元来た道を駆け戻ったのでした

ここを訪ねるなら、コバエの居ない季節がお勧めです。
◆歴史◆
永禄年間(1558~69年の間)に相馬盛胤により築かれました。
伊達家中で起きた天文の乱で、相馬家は伊達稙宗に味方しました。
この乱は子の伊達晴宗が実質的に勝利し、相馬家と対立関係になりました。
伊達稙宗は隠居後は相馬領のすぐ北にあった丸森城に居ました。
1560年には相馬盛胤の子・義胤が伊達稙宗の末娘を正室に迎えています。
1565年、伊達稙宗が没し、その遺言が領土問題を起こしました。
問題の遺言は、伊具郡5村を相馬家に譲るという内容でした。
相馬・伊達両家の争いは続き、1570年、相馬軍が丸森城を奪いました。
1576年、駒ケ嶺城が伊達軍に攻められました。
4月に相馬軍が亘理元宗を攻めましたが乗ってこず退却。
すると、亘理元宗は伊達輝宗の援軍を得て相馬領に攻めて来ました。
5月に伊達軍が駒ケ嶺城を攻めましたが、相馬軍が撃退しています。
この戦は周辺勢力が何度か仲裁を試みたものの、秋まで続きました。
その後も伊達軍とは一進一退を繰り返しましたが・・・
1583年に和睦した際に丸森城を伊達家に返しています。
1589年、伊達軍に攻め落とされました。
2月に伊達政宗が落馬し、足を骨折しました。
この機を捉え、岩城常隆と相馬義胤が伊達領に侵攻しました。
伊達政宗は回復すると反撃に転じ、駒ケ嶺城が落城しました。
この戦の最中に伊達軍は会津に矛先を転じ、蘆名氏を滅ぼしました。
これを機に反伊達勢力がこぞって伊達政宗の傘下となりました。
しかし、相馬義胤は滅亡覚悟で伊達軍への抵抗を続けました。
丁度この頃に豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼし、伊達政宗も降しました。
このことで、相馬家は滅亡を免れました。
しかし、駒ケ嶺城は相馬家に返されず、伊達家の城となりました。
戊辰戦争で落城し、焼失しました。
徳川家康が一国一城令を発し、全国で多くの城が廃城となりました。
しかし、伊達政宗は多くの城を「要害」呼び名を変えるに留めました。
駒ケ嶺城もこの時に要害の1つとなりました。
宝暦年間(1751~64年の間)には「所」に格下げされましたが・・・
江戸時代を通じて、仙台藩の軍事拠点であり続けました。
1868年の戊辰戦争では、仙台藩は浜通りの本営を駒ケ嶺城に置きました。
相馬中村藩が新政府側に寝返ると、翌日には駒ケ嶺城に攻めて来ました。
激戦の末、およそ一週間後に陥落して焼失しました。
仙台藩は二度にわたって奪還を試みたものの失敗し、その歴史を終えました。
所在地:福島県相馬郡新地町駒ケ嶺字舘
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