2019/03/21
黒木城/福島県相馬市
黒木城跡はほとんどが田んぼとなり、遺構はあまり残っていません。訪問日は2016年8月4日です。

地図では字西舘にあるように見えますが、主郭が字中樋にありました。
字中樋は宅地と田んぼになっており、城跡っぽさがありません。
黒木城跡としては、外側の堀跡が何となくわかるという感じです。
西側の道端にあるこれが、黒木城の説明板だったようです。
長年の風雨にさらされ、現在ではただの板になっています。

この近辺から山林に入れそうな所がありました。
「何も無い」と言われると「いや、何かあるかも」と無駄に燃える私。
・・・のハズですが、中に入って撮った写真がありません

今同じ状況に置かれれば、何の躊躇いも無く突入するのですが。

城は沼沢地に囲まれた微高地だったようです。
そんな様子を表現しようとした1枚です。
東西南北に通じる道があり、交通の要衝だったそうです。
古書では難攻不落の城だったと紹介されているとか。

いくつかある堀跡の1つです。
ここは城跡の南側で、墓地の脇の堀跡です。
完全に埋められてしまい、田んぼにした感じですね。
◆歴史◆
黒木氏の城でした。
黒木氏は出自不詳ですが、建武年間に黒木正光が城を築いたとされます。
黒木正光は南朝に属しており、結城宗広に従っていました。
地理的に伊達領に接しているので、伊達行朝に従っていると思ってました。
すぐ南の相馬氏は北朝方だったので、敵対していたかもしれません。
1347年の霊山城(南朝方の拠点)落城後は、相馬氏と同盟関係になります。
1543年、黒木氏が滅ぼされました。
伊達稙宗・晴宗父子の親子喧嘩が戦に発展し、奥州全体を巻き込みました。
天文の乱と呼ばれる戦で、相馬顕胤は義父・伊達稙宗を支持しました。
乱の原因の1つには、伊達稙宗による相馬顕胤への領地割譲もありました。
城主の黒木信房が伊達晴宗に味方したため、相馬顕胤に滅ぼされました。
これにより、相馬氏が宇多郡を完全に領有することとなりました。
天文の乱は伊達晴宗が勝利したため、以後伊達家と敵対することとなります。
城代が伊達輝宗に内応し、討伐されました。
1563年、城代・青田顕治が伊達輝宗に内応しました。
そのため、相馬盛胤が嫡男・相馬義胤に命じて討伐させました。
1579年には、城代の黒木中務が伊達輝宗に内応しました。
黒木中務は相馬顕胤の弟の養子でした。
討伐により黒木中務は伊達輝宗の元に逃れ、門馬貞経が城代となりました。
1590年、門馬貞経が討死しました。
1589年、伊達政宗によりすぐ北の駒ヶ峯城が奪われました。
この駒ヶ峯城を奪還すべく相馬軍が攻めましたが・・・
蘆名家を滅ぼして勢いのあった伊達軍に敗れています。
この戦で城代・門馬貞経が討死しました。
以後は城代が置かれず、番持ちの城となりました。
廃城時期は不明です。
所在地:福島県相馬市黒木字中樋
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