2019/03/21
相馬中村城/福島県相馬市
相馬中村城は、相馬氏の江戸時代の居城です。訪問日は2016年8月3日です。

バイクで走り回った2016年の夏休み。
この日は大気の状態が不安定で、時々ゲリラ豪雨に見舞われました。
雨宿りを繰り返しながら辿り着いた宿泊地の相馬市。
まだ陽が明るい!ということで、ホテルから徒歩で見に来ました。
最初にたどり着いたのが、北東部分にある外堀です。
これだけ見ると川のようにしか見えませんが・・・
この手前で行き止まりになっており、そこに外堀の標示があります


外堀を堪能したかったのですが、日没間際で時間に余裕無し。
出来るだけあちこち見ようと、駆け足で見て回りました。
地図で市役所の北側にも堀っぽい水色が描かれていましたが・・・
まぁ、こんな事もあります


城跡の南東では、市役所の新庁舎が完成間際でした。
場所が場所だけに、景観に配慮したデザインとなっています。
どうせなら本丸御殿風がいいなぁなんて思いますが・・・
相馬市に税金払ってもいないのに、エラそうな事は言えません


市役所の西隣のココが、相馬中村城の水堀です。
石垣は無く対岸も低くて、パッと見では城跡っぽさがありません。

水堀に沿って西へ進むと、大手一ノ門に辿り着きました

この立派な高麗門は、川越城の城番をした城主様が触発され建てたそうです。

高麗門なので、裏からみるとこうなっています。
門の外に見える建物は小学校です。
景観に配慮されたデザインだと、良い旅の思い出が撮れますね

記念写真撮って、背後に原色の建物映ってたらガッカリしますもんね。

一ノ門を入ってすぐの所に案内図があります

もちろん、パクります。

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案内図の方位は、北が上となっています。
大手一ノ門は、右下の南二の丸と東三の丸の間の凹んだ所です。

門から入った所の道は、土塁と土塁に挟まれています。
元々はもっと高かったのでしょうけど、雰囲気は何となくわかります。

江戸時代に築かれた平山城なので、平地部分は水堀が多用されています。

さらに進むと、枡形の名残があります。
この近くに中の門の標示がありました。
ここも土塁は崩され、名残が残った感じです。
どんな門だったのか、勝手に想像して楽しんでます


中の門を入ると、本丸への道が一直線に伸びます。
右側は土塁を隔てて東二の丸です。
左側は広い曲輪ですが、案内図には名前が書かれていません。
二の丸は東西南北描かれていて、南二の丸とは堀で隔てられています。
西二の丸とだけはつながっており、ここも西二の丸かもしれません。

さぁこれから本丸!ということで、ここに城址碑があります


木々の深い所に差し掛かると、堀に隔てられた石垣が現れます。
向こう側が本丸で、ここら一帯だけは崩されずに残っています。

赤い橋へは真っすぐ進めず、この食い違いを通ります。
ここ、よく崩されませんでしたね!

食い違いを抜けると、その先にこれがあります。
近くに説明板があり、丸土張という馬出だったようです。
この先が行き止まりだったのはそのせいでしょうか。
ここは綺麗に残っています。

赤い橋の手前には、おじいちゃんの銅像があります。
雰囲気的には城主様っぽいのですが、二宮尊徳でした。
二宮尊徳といえば、薪を背負って立ち読みスタイルが一般的です。
おじいちゃんバージョンは、全国的に見ても超レアだと思いますw

・・・いよいよ渡りますw
往時もここに木橋が架かっていたものと思われます。

橋の向こう側が本丸です。
入った所は木々が鬱蒼としていて、近代城郭の本丸っぽくありません。
本丸が神社になっているので、鎮守の杜になっているようです。
だからこそ、ここだけは開発を免れたのかもしれません。

相馬中村神社です。
相馬氏は千葉一族なので、城内に妙見神社を祀っていたと思われます。
廃城後、それが本丸の中心に移っただけなのかもしれません。

本丸も見たし、日没も近いしで、退却開始です。
神社の前から本丸の石垣に沿って下る道があります。

道の下に水堀があります。
ここは平山城の中段です。

ここにも虎口があります。
脇は土塁というよりも道を掘り込んだ感じです。
後世の作でしょうか?

下から見た所です。
元々の虎口のようです

後世の作なら、真っすぐにしますよね?

南二の丸脇の土塁です。
土塁の向こう側はサッカーグラウンドになっています。
ここの土塁も、オリジナルじゃないよなーという高さです。

大手一ノ門に帰って来ました。
こんな門、ウチにも欲しいです

◆歴史◆
1611年、相馬利胤により築かれました。
相馬中村藩初代藩主・相馬利胤により築かれました。
それまでの居城・小高城から移り、明治まで相馬氏の居城となりました。
相馬利胤といえば「大穴」の語源となったエピソードが有名です。
相馬氏は、佐竹氏と同調して関ヶ原の戦には関わりませんでした。
そのため、1602年に改易処分を受けています。
佐竹氏は54万石の常陸から20万石の秋田へ大減封。
佐竹義宣の弟・岩城貞隆は12万石の領地を没収されています。
相馬義胤も領地を没収され、佐竹氏に1万石で仕えるよう言い渡されました。
ここで立ち上がったのが、相馬義胤の嫡男・相馬三胤です。
名前の「三」が石田三成由来という程、相馬氏は親豊臣派でした。
相馬三胤は改易処分を覆すため、江戸に上りました。
そのために名前の「三」を「蜜」に改めています。
父と旧縁のあった旗本を頼って本多正信に面会。
その説得により徳川家康・秀忠父子が動き、改易処分が取り消されました。
この時に本多忠勝の機転で競馬に勝ったとよく紹介されますが・・・
そのエピソードの内容が、いくらググっても出てきませんでした

正確には出てきましたが、1つだけでは創作の可能性もあります。
どんな事があったのか、とても気になりますが・・・
改易処分をひっくり返しただけでも、十分に大穴ですw
相馬蜜胤はこの後、徳川秀忠の養女を娶って相馬利胤と改名します。
名前の「利」は、老中として絶大な権力を誇った土井利勝由来です。
土井利勝、やっぱり徳川家康の隠し子だったんでしょうか?w
所在地:福島県相馬市中村北町
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