2022/05/28
二岐ヶ峰城/栃木県那須町
二岐ヶ峰城は、伊王野家臣・三野沢氏の城でした。訪問日は2022年4月2日です。

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二岐ヶ峰城は、陸奥との国境近くにありました。
唐突に栃木ですが(苦w
そろそろ関東も〆ねばと、本気を出し始めた所です。
これから、手薄だった栃木・茨城を中心に城跡巡りをします。

1.西側の道
城跡へは桜公園からアクセスするのが良いとされますが・・・
その桜公園は行政のものではなく、地元住民が作ったものだそうです。
観光目的ではなさそうで、案内や駐車場の類はありません。
地図や航空写真から、何となく「ココから行ける?」と思った道です。
結果はギリギリ○でした^^

2.道の奥
それっぽい道を奥へ進むと、それっぽい場所に出ました。
木はたぶん桜、だと思います。
とりあえず、山中へと続く道を辿ります。

3.奥にある谷
道はこの谷の手前で消失。
パッと見た所、道が見当たりませんでした。
行きは、ですが

何となく登れそうな角度と高さなので、ここを登ってみました。
ここに生えてる蔓状の木が絡まって大変でしたけど


4.奥にある広場的な場所
そして、こちらが帰りに見つけた「楽に歩ける」コースです。
先程の谷より左前方に、こんな風に開けた場所があります。
行きはココを見つけられませんでした。

5.重機による道
開けた場所の奥に、重機が通った道があります。
ここを登ると、北側の尾根に登れます。
こっちの方が、より人間らしく城跡に行けます。

6.尾根
そうとは知る由もなかった行きは、とにかく手探りです。
何しろ城の位置がわからない(*´∀`*;)
とりあえず、谷の上から右へ進んでみました。
何となくピークっぽくて「こっちが城だったらいいなぁ~」で。

7.祠
手付かずの自然のままの尾根の先に、綺麗に開けた場所がありました。
そこには小さな祠が。
明らかに人工的な平らな場所ですが、それだけです。
土塁も堀も切岸も無い、ただの平らな場所です。
物見としてならアリですが、ハズレでした。

8.道
ただ、下にはすごくきれいに手入れされた道が。
どこまで行けるか、いったん下りてみました。

9.南側の入口
道を辿って下りて来ると、表の道に出ました。
こちらからも、祠を通って城跡に行くことが出来ます。

10.祠の反対側
祠を経由して登り直し、今度は反対側へ。
谷の上から見た「左側」です。
城跡はこっちでした。

11.帯曲輪
何しろ正確な城跡の位置を把握せずに突撃。
なので、これでハズレだったら諦めようと思ってました。
でも、高みを目指して登ったらありました。
人工的な段差(*´▽`*)

12.切岸
現れ始めると、次々と現れます。
段差が一番大きくハッキリしていたのがココです。
手前は少し広めな腰曲輪な感じです。

13.二郭
大きな段差の上に、かなり広い平坦地がありました。
たぶん、ここが2番目に重要な曲輪だったと思われます。
先へ進むと、まだ上がありました。

14.主郭
二郭から緩やかな傾斜を登った所が、山頂の主郭です。
「景色が同じ」「何が違うんだ」なんて言わないで下さいネ。

15.北東側の腰曲輪
主郭から、北側に尾根が下っています。
下りられそうだと思ったら、幅の広い曲輪が見えました。
この時は腰曲輪の形をトレースしようと思っていました。
でも、等高線的になだらかに続く北側も見たくなりました。
戻ってからでいいや!と思いましたが・・・

16.北側の尾根
何だか左下が開けていて下りられそうな感じに見えます。
そう魔が差すと、白なぽが背中を押します。
白いのも黒いのも、前置きなく背中を押す癖があり困っています。

17.下る道
尾根を下る内に、まともっぽい道が現れました。
これが、5の写真の道を上から見た所です。
ここを下ると5→4を通り、最初に入った道に出ます。
◆歴史◆
伊王野家臣・三野沢氏の城と伝わります。
伊王野氏は「那須七騎」と呼ばれる那須一族です。
那須七騎は、那須一族とその重臣から構成されています。
下野国の北半分に割拠し、白河氏、佐竹氏、宇都宮氏らと争いました。
ただ、各家の独自性が強く、離合集散を繰り返しました。
地理的に奥州へ続く街道を守る位置に、この城はありました。
城主の三野沢氏については、出自が2説あります。
1つは新田氏説です。
『簑沢村二岐ヶ峰城之古記』にそのことが記されているそうです。
それによると、南北朝時代に移り住んだ新田一族が築いたとされます。
南北朝時代の新田氏といえば、南朝方武家の頂点です。
新田一族と言っても一枚岩ではなかったかもしれませんが・・・
仮に南朝方だったとすると、北の白河氏の勢力だったかもしれません。
那須氏は北朝方だったので。
ここら辺の細かい事は?ですが、代々子孫が拠点としたそうです。
もう1つは芳賀氏説です。
こちらの方が具体的で、芳賀高俊の次男・重広を祖とします。
那須頼資に従った芳賀重広は、大田原に領地を与えられます。
その子・重行が簑沢郷を与えられ、子孫が暮らしたとされます。
どちらもココを拠点にしたようですが・・・
私の勘では、1→2のような気がします。
所在地:栃木県那須郡那須町簑沢 GPSログダウンロードページ
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