2019/03/17
牛越城/福島県南相馬市
牛越城は相馬氏が一時本拠とした所です。訪問日は2016年8月4日です。

城跡へは、南東から西へ進み、西から東へと回り込む道を進みます。
未舗装ですが固く踏みしめられており、オンロードバイクでもokでした。
その道を走っていると、途中で道端に土の壁が現れます。

その背後には、森を切り裂く大きな堀切があります


堀切の先の左側が、牛越城の二郭です。
道は二郭の南脇をまっすぐ進みます。
右側も高くなっており、堀切の脇に土塁があります。

そのまま進むと、ここで突き当りとなります。
大きなタンクの前に門があり、立入禁止と書かれています。
ここが主郭です。
ただ立入禁止だと悔しいのですが、門の脇に説明板があります。

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その説明板に載っている図です。
真冬ならこの図片手に山林を駆け巡るのですが・・・
本丸(=主郭)以外は原型を留めていそうな感じです。
◆歴史◆
牛越定綱により築かれたと伝わります。
牛越定綱は室町時代の人物で、相馬氏に従う国人でした。
その牛越定綱により1444年頃に築かれたとされます。
しかしその翌年、牛越定綱が相馬高胤に対し謀叛を起こしました。
これは相馬高胤が攻めていた標葉清隆に寝返った?のかもしれません。
この時期、相馬高胤は標葉郡(しねはぐん)に侵攻していました。
これに対し標葉清隆は、小高城から8kmの権現堂城に本拠を移しました。
かなり攻撃的な本拠移転です。
牛越定綱の謀叛に中島城主の飯崎胤秀も同調し、相馬高胤は劣勢となります。
この窮地を救ったのが、文間胤久と青田清弘でした。
武勇で勇名を馳せた牛越定綱に、この2人が降伏しました。
しかしこれは謀略で、牛越城内に入ると牛越定綱を討ち取りました。
相馬高胤は混乱する牛越城を攻め、謀叛鎮圧に成功しました。
両名に対し相馬高胤は「永代断絶させるべからず」と絶賛しました。
相馬高胤は標葉氏を滅ぼす前に没しましたが・・・
1492年、相馬高胤の子・相馬盛胤の代に標葉郡を手中に収めました。
1597年、相馬義胤が本拠としました。
相馬義胤は奥州仕置きを乗り切り、本領安堵を得ました。
この時に石田三成に大きな借りが出来たそうです。
そのため、嫡男には三の字を付け相馬三胤と名乗らせています。
豊臣秀吉の晩年、相馬義胤は牛越城を改修して本拠を移しました。
これは伊達政宗との戦に備えたとする説があります。
1602年、相馬家が改易を乗り越えました。
相馬義胤は関ヶ原の戦の際、佐竹、岩城氏同様、中立を保ちました。
それは1590ねの奥州仕置きの際に石田三成から大恩を受けたからでした。
しかし、徳川家康は関ヶ原の戦が終わった1602年に改易を命じました。
その内容は、秋田へ移る佐竹家に1万石で仕えろというものでした。
相馬義胤は退去命令に従い、旧知の三春城代・蒲生郷成を頼りました。
ここで、相馬義胤の嫡男・相馬三胤が動きました。
徳川家中にはコネが全くありませんでしたが・・・
石田三成由来の「三」の字を「蜜」に改め、14名の供を連れて江戸へ。
父と旧縁のあった旗本・島田重次を経て、本多正信に面会しました。
本多正信が徳川家康・秀忠を説得し、相馬家の改易が取り消されました。
この年の内に相馬蜜胤は徳川秀忠の養女を娶り、名を「利胤」と改めました。
1603年、廃城となりました。
相馬義胤は、居城を小高城に戻して牛越城を廃城としました。
牛越城はピンチになった時の居城で縁起が悪いというのが理由だそうです。
その後、1611年に相馬中村城に移り、明治まで相馬家の居城となりました。
所在地:福島県南相馬市牛越
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