2019/02/28
小高城/福島県南相馬市
小高城は陸奥相馬氏初代・相馬重胤が築いたお城でした。訪問日は2016年8月4日です。

東側から入ったときに入口にあった標柱です。
ファーストインプレッション!という事で

こういう物が無い所ばかり回っていると、嬉しくなっちゃいます。

大抵の城跡では、こういう無言のインプレッションを肌で感じています。
障害物が無いのに道がクネり、土塁が迎えてくれる東側の入口です。

入口は若干の虎口っぽさを感じましたが、中はかなり広い平坦地です。
言われなければ、ここが城跡だと感じさせないレベルです。
かなり大きな神社なのですが、ここはお城の説明板が充実しています。
社殿の真正面の参道脇の石灯籠に挟まれて1枚あります。
普通このポジションなら、神社の縁起がある所です。

社殿で二礼二拍一礼でご挨拶を済ませ、社殿の背後へ。
そこには結構高い土塁が巡っています。
山の中だと社殿周りの削り残しの可能性大ですが・・・
広々して余裕がある境内の端なので、間違いなく土塁です


土塁の向こう側には、ちゃんと堀跡が残っていました。
あんまり訪ねる人の無い場所だと思いますが・・・
世の中には色んな人が居るという風に思って下さいw

最後は、社殿真正面の石段の下にある大きな城址碑です。
事前にこれがあるのを知っていたので、こちらにも来ました。
これほどまでに色々充実しているのは、ここが特別な場所だからでした。
◆歴史◆
1323年、相馬重胤により築かれました。
相馬重胤は陸奥に移った最初の相馬氏です。
親の代に家督争いがありました。
その結果、祖父の先妻の子が下総国相馬郡を継いでいます。
相馬重胤の父親は祖父の後妻の子で、鎌倉幕府に家督を認められませんでした。
その子・相馬重胤が家督を奪いかねないと、陸奥へ移されたのでした。
小高は元々、相馬氏の祖・相馬師常が源頼朝から与えられた地でした。
1336年、北畠軍に攻められ落城しました
相馬重胤は足利尊氏に従い、武家方として活動しました。
嫡男・相馬親胤を足利尊氏に同行させ、九州まで従いました。
その間、相馬重胤は鎌倉で北畠顕家軍と戦い、討死しています。
小高城を守っていた次男・相馬光胤も、落城の際に討死しました。
1337年、相馬親胤が奪還しました
翌年、足利尊氏が湊川の戦を制して京に戻りました。
後醍醐天皇は吉野へ退避し、南朝を樹立しました。
相馬親胤も匹散していた一族と合流し、小高城を奪還しました。
以後、1611年に相馬中村城へ移るまで、相馬氏の本拠でした。
(1597年~1603年に牛越城が本拠だった時期を挟みます)
城跡が相馬小高神社になりました
現在は相馬小高神社と呼ばれています。
これは明治時代からで、それ以前は妙見神社でした。
妙見神社は本家の千葉氏が信仰し、城館内または近くに必ず祀っていました。
相馬氏もこの信仰を引き継ぎ、城内に妙見神社があったものと思われます。
所在地:福島県南相馬市小高区小高古城(相馬小高神社)
福島県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント