2019/02/24
山田岡館/福島県楢葉町
山田岡城は岩城氏と相馬氏が争奪戦を繰り返した境目の城です。別名は楢葉城、木戸城とも呼ばれます。
訪問日は2016年7月30日です。

まずは北側の曲輪群から攻めて来ました。
手前(北西)の小舘(古舘)が一番最初に出来た所だそうです。
そこは北へ道を曲がった先にあり、訪ねていません。
道沿いに2つ続けて見える広い空き地が西舘と東舘です。
どちらも当時売り出し中でした。

城キチは、城跡に来たら高い方へ吸い寄せられます。
北側には行かず、上り坂の南側のこの道に入りました。

奥には1軒の民家があります。

その近くから、それっぽい雰囲気の山中に入れました。

とまぁ、こんな感じです。
どう見ても城跡です

訪問時にはどこだかわかっていませんでしたが・・・

主郭の下の曲輪の下でした。
切岸に沿って、結構幅の広い堀跡が続いています。

元の道に戻りさらに進むと、ガードレールが現れます。
両側が低くなっていますが、橋ではなく土橋状になっています。

ここは堀跡で、東館と羽出庭の間にあります。
幅も深さも城内で最大の堀跡です


下の道に戻り、今度は南側の曲輪群を見て来ました。
ここから脇道に入って上がるのですが・・・
私、こういう道にトラウマがあって、ここから歩きました。

慣れないカメラだったので、ここから画がハイテンションです。
脇道を上がると、かなり広い平坦地に出ます。
ここが二郭です。
一面の大きな平坦地に見えますが、道を進んだ奥は三郭です。
埋められたのか、二郭と三郭の境目がわからなくなっています。

二郭からは奥に高台が見えます。
この高台が主郭です。

近くで見ると、とても迫力があります


端から回り込むような細道があり、主郭に上がりました。
主郭は分厚い土塁で囲まれています


冬は草が刈られているようですが・・・
私が訪ねた時はそうでもありませんでした

それでも、人の背よりも高い土塁に囲まれているのはわかります。
◆歴史◆
楢葉氏の城だったと伝わります。
楢葉氏は岩城氏と同族の海道平氏の一族です。
源頼朝による奥州討伐の時の功で、清原成衡が浜通り南部を与えられました。
清原成衡は清原真衡の養子で、海道平氏出身でした。
正室には源頼義の娘を迎えており、超エリートです。
清原氏は平氏と源氏のサラブレットを迎え、家格を上げたかったそうです。
その嫡男にこの辺りが与えられ、領地から楢葉太郎隆祐と名乗りました。
楢葉太郎の居館がここだったのかは定かではありません。
ちなみに弟の次男が岩城次郎、三男が岩崎隆久、四男が標葉隆行です。
岩城氏の系図ではここら辺が違うらしく、真相は???です。
1474年頃に岩城氏の城となりました。
岩城親隆が家臣である猪狩筑後守に楢葉一帯を与えました。
この頃に岩城氏が楢葉氏を滅ぼしたものと考えられています。
岩城親隆はさらに同族の岩崎氏も滅ぼし、浜通り南部を制圧しています。
同時期に北から相馬氏が南下し、標葉氏を滅ぼしました。
岩城氏と相馬氏は、周辺勢力と連携しながら一進一退を繰り返します。
1534年ごろ、相馬氏に奪われました。
岩城重隆の娘・久保姫を巡り、南奥一帯で大規模な争いがありました。
岩城氏には白河結城氏が味方し、伊達・相馬・二階堂・石川氏と戦いました。
この戦で楢葉一帯は相馬氏に奪われ、下浦泰清が木戸城主となっています。
木戸城が山田岡館の別名なので、ここにいたという事ですね!
尚、久保姫は伊達晴宗に嫁ぎました。
さらに、その子に岩城氏を継がせる約束がされました。
これらの結果を結びつけると、岩城氏、負けたんですね・・・
岩城氏を継いだのが伊達晴宗の長男で、伊達輝宗の兄・岩城親隆です。
※上の岩城親隆とは同姓同名の別人です。
1570年、岩城氏が奪還しました。
相馬氏が伊達軍と伊具郡を巡って争っていた頃です。
岩城家では1568年に岩城重隆が没し、岩城親隆も姿を消しました。
岩城親隆は病で人事不省となり、正室の桂樹院が家政を仕切りました。
ということで、桂樹院の兄・佐竹義昭も口を出し始めた頃です。
1590年の奥州仕置きは、岩城常隆が小田原に参陣し乗り切りました。
しかし、当時すでに重い病に冒されており、帰ってすぐ世を去りました。
まだ24歳でした。
岩城常隆には幼子が居ましたが・・・
豊臣秀吉の命令により、佐竹義重の三男が岩城家を継ぎました。
そのため、岩城常隆の子は追放されてしまいます。
岩城家を継いだ岩城貞隆は、兄・佐竹義宣と行動を共にしました。
1601年、廃城になったと考えられます。
関ヶ原の戦で、岩城貞隆はどっちつかずでした。
会津の上杉景勝と密約が有ったとか無かったとか・・・
そのため、勝利した徳川家康により領地を没収されました。
兄・佐竹義宣も、常陸54万石から秋田20万石に減封されています。
この時に廃城になったと考えられています。
所在地:福島県双葉郡楢葉町山田岡
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