2019/02/22
大館城/福島県いわき市
大館城は飯野平城とも呼ばれる岩城氏の本拠でした。訪問日は2016年7月30日です。

まっすぐな道から山に入る所に、この石碑があります。
城址碑はいつもならもうちょっと正面から撮るのですが・・・
前の道は車が沢山通る道で、歩道が超狭いです。
よって、角度があまりとれませんでした。

ここからまっすぐな道が、山の上に向かって伸びています。

登るだけ登ると、いったん平坦な所に出ます。
何となくグダっと車が停められそうな感じの広場があります。
ここに案内があります

入口の石碑は大館、ここは飯野平城と書かれています。
飯野平城は、磐城平城と区別するための呼び名です。
比較的新しく、1980年代後半から使われ始めたそうです。

この道を見て、バイクでは無理かな~と感じました。
私は面倒くさがりなので、出来るだけ歩きたくない派です。
本当ですw
石畳、、、でもなく石が埋め込まれていて凸凹してます。
徒歩でも足裏痛くなりそうです。

広い所に出ると、正面に大きな石碑があります。
いきなりですが、ここが二郭です


石碑のタイトル?には、飯野平城-大館-と彫られています。
写真を拡大したら、すぐ下に「現当主岩城隆宜書」とありました。
城址碑あるあるの、城主様御子孫直筆です。
こういうの、いいですね^^
一番最後の所を見たら、1995年の日付でした。

回れ左をすると、奥に鳥居が見えます。
曲輪なので、広く撮りたくなりました


石碑脇の道をさらに登ると、木が若干多い公園っぽい所に出ます。
ここが主郭です。
真ん中にある大きな石碑には「戦没者慰霊碑」と彫られています。
「大館城ぉ!」のも欲しいですねw

ただ真っ平らなだけだとつまらないなぁなんて思い端っこへ。
結構草深い所を攻めたらありました。
ガッツリ整備されているので?ですが、低い土盛り見つけました

◆ザックリ歴史◆
岩城氏諸流の白土氏の城でした。
築城年代は不明です。
岩城氏諸流の白土隆弘が、1400年頃に築いたとする説があります。
白土隆弘でググると、岩城常朝という名前でも登場します。
1442年から翌年にかけて、岩城家中で内紛がありました。
この内紛は「岩城左馬助の乱」と呼ばれ、岩城隆忠が制圧しました。
岩城隆忠は白土隆弘の孫ですが、この事件を機に岩城氏惣領となりました。
また、岩城隆忠の孫・岩城常隆から本拠になったとする説もあります。
この頃が岩城氏の全盛期で、佐竹氏や白河結城氏に影響力を及ぼしました。
1590年、岩城家が佐竹家に吸収されました。
岩城家では伊達晴宗の長男が家督を継いだこともありました。
この当主が岩城親隆で、伊達家寄りの時期がありました。
しかし、子の岩城常隆の代になると、伊達家とは疎遠になりました。
これは、対立していた田村家の娘が伊達家に嫁いだためでした。
以後は佐竹家に接近し、佐竹義重が介入するようになりました。
伊達政宗が蘆名氏を滅ぼした1589年に一時伊達家に従いましたが・・・
その翌年、奥州仕置きを乗り切った直後に岩城常隆が世を去りました。
まだ24歳の若さでした。
ここで佐竹義重の三男・貞隆が岩城氏を継ぎました。
岩城常隆には幼子がいましたが、追放されてしまいます。
1600年、岩城家が改易されました。
関ヶ原の戦では当初、岩城貞隆は東軍につきました。
しかし、実兄・佐竹義宣とともに会津征伐には兵を出しませんでした。
かといって積極的に西軍として活動した訳でもなく・・・
そうこうする内に徳川家康が勝利し、岩城家は領地を没収されました。
岩城家の領地には鳥居忠政が入り、新たに磐城平城を築きました。
これにより、大館城は廃城となりました。
その後の岩城氏
1590年に追放された岩城政隆は、1607年に伊達政宗を頼りました。
伊達政宗とは祖父が兄弟のため、又従兄弟でした。
そのため領地を与えられ、1610年には伊達姓を許されました。
以後は一門第六席の岩谷堂伊達家として続きます。
一方、佐竹家から岩城家を継いだ岩城貞隆も頑張ります。
方々で岩城家再興に尽力し、本多正信に従うことが許されました。
そして大坂の陣での功が認められ、川中島に領地を与えられました。
その後、岩城貞隆の兄・佐竹義宣の跡継ぎが絶えました。
この時に岩城貞隆の子・吉隆に白羽の矢が立ち、佐竹本家を継ぎました。
以後は出羽久保田藩の藩主・佐竹義隆となり、代々続きました。
所在地:福島県いわき市好間町
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