2019/02/20
平城/福島県いわき市
平城跡はいわき駅の前にありますが、大部分が私有地です。訪問日は2016年7月30日です。

平城の北側を馬蹄形に囲む堀跡です。
私は1つ道を曲がり損ね、なかなか曲がれませんでした。
ようやく右折して住宅街を走り、辿り着いたのがココでした。
iPhone様で現在地を確認していたら、地元の方に声を掛けられました。
城跡を見に来たと言うと、丁寧に道を教えて下さりました。
「超高速参勤交代の舞台だよ」とも。
帰宅してから見ましたが、とても面白い映画でした^^

ちょっと高い所から見た堀跡です。
地形をそのまま使ったのか、それとも掘ったのか。
水戸城の堀に匹敵する規模の水堀です。
10万石で?と冷静に考えれば、地形を利用したと考えるのが自然かも。

北から下り、南側のこの階段を上がりました。
この通路が無ければ、かなり遠回りさせられたと思います。

長い階段を上がった所です。
左側がちょっと高いなぁなんて思っていると、大きな石がゴロゴロ。
ここは元々は石垣があった所ですが、大地震で崩れてしまった所です。

ここに来て初めての石垣様です

しかし、事前に見てきた写真の半分程の高さしかありませんでした。

階段を上がって左に曲がると、それっぽい門が見えました。
この門の中が本丸跡の広場です。
わぁ、開いてる


入ってすぐの所に案内図がありました。
「ご案内」の下に「磐城平城本丸跡地」と書かれています。

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お約束どおり、いただきます!
図は北が上です。
私は当日、最後の最後まで自分の位置を把握出来ていませんでした。
図の設置されている位置は西側なので、方角を考えないと迷います。
ただ、じっくり考える間も無く、近くに居た方に声を掛けられました。
何かの準備中らしく、関係者以外は入っちゃダメだったそうで・・・
名残を惜しみつつ、大人しく出ました。
後から案内図の写真をよく見たら「私有地です」と書かれていました

改めてググってみると、イベントの時だけ入れそうな感じです。

とりあえず周りを見ようと、広場の外に沿って進みました。
東側へ進むと広場があり、駐車場となっていました。

その端っこに、足元が石垣の土塁がありました。
外側は道が下っているので、どうやら門跡の内側のようです。

その外側です。
門跡っぽかったので、道を挟んで両側を写しています。
右側がブロック塀だったので、真っ白にすっ飛んでしまいましたが

ここが平城跡の石垣で一番の見所だったようです。
事前に見てきた写真は、ここの石垣もこの倍の高さがありました。
ということで、門脇の櫓台の石垣だったようです。
先ほどの案内図で「塗師櫓石垣」と書かれているのがココです。
最後まで自分の位置を把握しておらず・・・
めぼしい石垣を見た所で満足して、次の城跡へ飛んで行きました。
今こうやって改めて図を見ると、東側の堀を全く見ていません

これから訪ねる方は、しっかり堀跡を堪能して来て下さいw
◆歴史◆
1603年に鳥居忠政により築城が開始されました。
鳥居氏というと山形城を思い出すのですが、その前に居たのがココです。
関ヶ原の戦が終わると岩城氏が追放され、鳥居忠政が配置されました。
鳥居忠政は徳川四天王・鳥居元忠のあとを継いだ武将です。
岩城氏の居城には入らず、新たに城を築きました。
また、地名を「岩城」から「磐城」に改めました。
12年の歳月を費やして、平城は完成しました。
1622年、鳥居忠政は最上氏が改易された山形22万石へ移りました。
内藤政長が磐城平藩主となりました。
内藤政長の父・内藤家長は、鳥居元忠とともに伏見城で戦死しています。
そういう意味で、鳥居氏とは深い縁のある徳川譜代の家柄です。
某映画の湯長谷藩は、2代藩主が1670年に次男に分与した1万石の支藩です。
内藤家は1738年の元文百姓一揆が原因で、1747年に日向延岡へ移りました。
1747年~58年は井上正経が藩主でした。
時期が短いため、史料が殆ど残っていないそうです

1758年、安藤信成が藩主となりました。
美濃加納藩から安藤信成が移って来ました。
以後、明治維新まで安藤氏が藩主を務めました。
5代藩主・安藤信正は老中まで昇進しましたが・・・
1862年の坂下門外の変で失脚し、領地も4万石まで減らされました。
しかし、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟につき、新政府軍に抵抗しました。
そのため、1868年に平城は戦火で焼失しました。
所在地:福島県いわき市平
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