2019/02/11
基肄城/佐賀県基山町
基肄城(きいのき)は、続日本100名城に選ばれた古代山城です。訪問日は2019年2月9日です。
まずはスタンプを求めて、役場のすぐ隣にある基山町民会館へ。
1階の入口から入ると、すぐ右に基肄城の模型があります。
しばし見惚れた後、我に帰ってスタンプを探すも見当たらず。
入口から見て左側に事務所があり、尋ねたら出してくれました。
デザインは水門の石垣です

続日本100名城スタンプ設置場所
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基山町民会館 https://www.google.com/maps/d/view?mid=1tTlCSPkbJWZ19msb7Da3T_mu5rw&ll=33.42702,130.52395&z=19" style="color:#009900" target="_blank">地図 開館時間 9時~22時 休館日 第4月曜日(休日の場合翌日)、12月29日~1月3日 入館料 無料 |
さて、次はいよいよ城跡へ。
昨年夏の台風被害により、一部行けない場所があるらしい・・・
そんな事前情報があったので「行ける所まで」のつもりで訪ねました。
登城口は基山草スキー場です。
ここの「基山」の読み方は「きざん」です。
地名の「基山」は「きやま」。
山の名前である「基山」は「きざん」です。
しかも「基肄城」って、たぶん殆どの人は書けないと思います。
ちょっとややこしい所です


2 基山草スキー場駐車場
途中のお寺に惑わされつつ、山道を登り切ったここが駐車場です。
かなり広いですが、三連休初日に貸し切りです( ・´ー・`)v

3 説明板
駐車場のすぐ脇には、案内図付きの説明板があります


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現地でゲットできた数少ない図なので、ありがたくパクらせて頂きます。
とは言いつつ、ちょっと色々補足が必要です。
まずは図の向きですが、北が右になっています。
説明板は南側に設置されているので、素直に北が上でいいハズです。
北を右にするのは、東から見た場合にする事です。
なので、元々は水門跡にあったものかもしれません。
あとは、図中で今いる現在地ですが・・・
草スキー場が一番上に描かれているので、その左上の欄外ですw

4 基山草スキー場
さて、ここからどう攻めるかですが・・・
案内の道しるべは皆無で、目の前には芝生のハゲ山があるだけです。
とりあえず、本能の赴くがままに高みを目指してみました。

5 いものがんぎ(木山城)
途中から右端に道っぽい踏み跡があったので、辿ってみました。
すると、稜線に近づくと何かが見えてきました。
この膨らみは、連続堀切様です

現地では「いものがんぎ」と呼ばれ、木山城跡の入口に当たります。
木山城は戦国時代の陣跡だそうで、その時の遺構と考えられています。
造りを見てると、烽火台のような感じがします。

6 木山城主郭
いものがんぎのすぐ奥に、高さ5メートル程の城塁があります。
この上が木山城の主郭です。

7 木山城主郭から見たいものがんぎ
主郭上から望遠で撮ってみました。
お芋さんが並んだように見える、可愛らしい四重堀切でした


8 筑紫平野
主郭は細長い土の壇で、奥側が浅い堀切で隔てられています。
その先に天智天皇欽迎之碑があり、緩斜面先端に展望台があります。
筑紫野平野が一望出来る、戦略上の重要拠点ですね!
ガッツリ寄り道しましたが、基肄城の一部ではあります。
資料では、土塁線に沿って木山城があります。

9 木山城遠望
気持ちを切り替えて、いざ基肄城へ!
心の中では思いつつ、つい振り返ってしまうのが城キチです


10 城址碑
さて、木山城の基部に当たる広い平坦地に城址碑があります。
文字が1つ多いのは「基肄(椽)城」と彫られているからです。
このカッコ付きの表記が正式名称じゃないかと思ってしまいます。
※気になってググったら、カッコ付きが正式名称でした。

11 山頂
山頂部分は平坦面が緩やかに連続しています。
その一番高い所から城址碑・木山城方向(南方向)を見た所です。
反対側にも、これと同じ位の平坦面が緩やかに続いています。
そっち側は一面ススキで覆われていますけど


12 遊歩道
さて、写真も12枚目になった所で、ようやく城内散策開始です

案内はありませんが、何となくそっち方向への道を進みました。

13 分岐
城塁の右脇を進み、道が下りになる所に分岐の案内があります。
写真では見えませんが、ここには「北帝門跡」と書かれています。

14 遊歩道
そっちを見ると、ススキをちょっと掻き分けた痕跡がある、かも?
私のような人種が、年に数回突撃したように見えなくもありません。

15 分岐
でも安心して下さい。
そんな馬鹿なとちゃんとした道を3メートル進むと、分岐があります。
北帝門へ通じる道の正解は、この左脇の道です。
・・・先に結論書いちゃうと、本当はどっちからも行けます

東北門跡も見たい!という方は、右の道の方がわかりやすいです。
理由は後ほど


16 遊歩道
分岐から北帝門跡への道は、だいたいこんな感じです。
普段の探検ごっこからすると、かなり恵まれた道が整備されています


17 北帝城址の石碑
地図を眺めていたらもっと遠いのかと思っていましたが・・・
城址碑の所から約10分で「北帝城址」と彫られた石碑が現れました。

18 北帝門
門の跡はその10メートル程先にあります。
両脇は、よ~~~っく見ると土塁状になっています。
その真ん中を道が通っている格好です。

19 北帝門
この断面に、ほんのわずかですが石垣が残っています


20 北帝門
門跡を外側から見ると、足元に無数の石が埋もれています。
おそらくこの石の1つ1つが石垣を構成していたものと思われます。
もっと年月が経つと、これらの石も埋もれてしまうのでしょうか。

21 山道
行ける所までのつもりでしたが、アッサリ着いたので欲が出ました。
さらに東にあった東北門跡にも行ってみることにしました。
道がよくわからなかったので、とりあえず見えたそっち方向の道へ。
結果オーライなのですが、この道?はあまりお勧め出来ません。
というのも、途中で不明瞭になり、不慣れな人は迷いかねません。
ここはまだハッキリしてる方ですが、階段は無く斜面を直接下ります。
後付けですが、私はどうやら土塁に沿って下ったようでした。

22 東北門
土塁っぽいな~なんて感じで下っていると、突然土塁が切れます。
あら、堀切様?と思い脇へ下ると、こんな感じになっています。
道に直交する堀切?なんて思っていたら・・・

23 東北門
3メートル程下がって見たら、すぐ脇に「東北門址」の案内ありました。
案内より先に遺構を見つけちゃうのって、多分城キチあるあるですねw

24 東北門
せっかくなので外側からも。
土塁?と思って上を歩いていたのは、まさしく土塁そのものでした。
この土塁が少し低くなったココを塞ぐ形で築かれています。
この土塁を通るため置かれたのが、東北門でした。

25 土塁
下って来たのとは反対側の土塁上面です。
あらためて見ると、ずっと長い土橋状になっています。
往時も土塁を通路代わりに歩いたのでしょうか?
チョット気になります。

26 山中で分岐する北帝門跡への道
門から入る道を辿り、スタート地点に戻りました。
ココからだと「基山」を目指すこととなります。
途中1か所右へ分岐する道があり、その道が北帝門跡へ通じています。
私が通らなかった道です


27 丸尾礎石群
山頂を目指して「史跡のみち」を進むと、丸尾礎石群がありました。
ここは山中にあるまとまった平坦地で、曲輪っぽさがあります。

28 丸尾礎石群
「礎石群」というだけあって、地面には大きな石が並んでいます。

29 丸尾礎石群
さらに階段の道を登ると、再び「礎石群」の案内があります。
こちらは数段の平坦地に、やはり大きな石が並んでいます。

30 階段の上が元来た道
このまま登り続けると、はじめに分岐した所に戻ります。

続いて水門跡も見てきました。
公式サイトにある「一部行けない所」は水門付近の事です。
「いものがんぎ」から水門跡に通じる道が×なルートです。
私は草スキー場から水門跡の下まで車で移動しました。
ただ、水門跡に至る道は、大きな車では無理な道です。
民家の石垣が迫る細く曲がりくねった道で、軽でもドキドキでした。
この道は、水門跡まであとチョットの所で通行止めとなります。
「車両通行止」なので、ここから徒歩で進めます。

通行止め箇所から100メートル程で、水門跡に辿り着きます。
左側手前には、土石流で破壊された家があります。
水門跡も、右の林道はかなり被害を受けた様子です。

拡大表示
道端にある基肄城の案内図です。
手前には、グチャグチャになった説明板が落ちていました。
この案内図自体も立ち位置は歪んでいて、板も少し曲がっています。

すぐ手前には、城址碑の変わり果てた姿もありました


ただ、水門自体は無事だったようです。
1300年以上も風雨に晒され続けた耐久力は流石です!

これを見ると「やっぱり、古代城はコレだよなぁ

スケールがデカ過ぎて、全体像が掴みづらいのが古代城です。
今回見て来たのも、実は西側の半分だけだったりします。
そのため、これまであまり興味は持てませんでした。
それが少し変わって来たかもと、チョット危険な予兆を感じ始めましたw
夏休みにじっくり見る事にした大野城が楽しみになって来ました

◆歴史◆
665年、天智天皇により築かれました。
663年、天智天皇は百済救済のため、朝鮮半島に出兵しました。
これが日本史の教科書に載っている「白村江の戦」です。
しかし、唐・新羅連合軍に敗れ、百済は滅びてしまいました。
この敗戦後、唐・新羅の侵攻に備えて水城が築かれました。
さらにこの翌年、大野城とともに基肄城が築かれました。
築城には百済から逃れて来た憶礼福留と四比福夫が携わったそうです。
天智天皇はその反面、戦を避ける政治的努力も怠りませんでした。
律令国家としての法整備を進め、遣唐使の派遣も始めました。
国号を「倭国」から「日本」に変えたのもこの時期だそうです。
その甲斐あってか、唐との友好関係を築くことに成功。
690年には捕虜が初めて唐から帰国したそうです。
所在地:佐賀県三養基郡基山町小倉 GPSログダウンロードページ
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