2013/08/02
鵜木氏館/東京都大田区
鵜木氏館は多摩川沿いの矢口の渡し付近にありました。光明寺はその館跡にあると考えられています。

光明寺は環八の「藤森稲荷前」交差点のすぐ近くにあります。お寺の前にはいくぶんかクルマを停められるスペースがあります。環八を走っていると「やっぱり城跡だ!」と感じさせてくれます。
◆歴史◆
鵜木氏は江戸氏の庶流です。江戸氏はもともとは江戸城を本拠としていた秩父一族です。源頼朝に従って源平戦で功を挙げ、武蔵各地に所領を得ました。特に多摩川下流域には江戸氏の子孫が多くいらっしゃるそうです。
ここで起きた大きな出来事。それは1368年、室町時代のはじめ頃のことです。足利尊氏が没すると、新田義興が上野で挙兵しました。新田軍は連戦連勝で、多摩川沿いに南下して鎌倉に迫る勢いでした。
そこで関東管領・畠山国清は一計を案じました。それが江戸遠江守と竹沢左京亮による新田義興の騙し討ちです。
義興が軍勢を進めると、2人は偽って降伏しました。もともとは主従であったため旧交を温め、次第に信用されるようになりました。そして10月10日、名月の宴を催すと義興を誘いました。
矢口の渡しから舟に乗り月を愛でる筈でしたが・・・多摩川の真ん中辺りに差し掛かった所で舟底が抜かれました。義興と近臣は、待ち伏せていた遠江守と左京亮の手勢に討ち取られました。
その後一週間ほど経って、遠江守は矢口の渡しから舟に乗ろうとした時の事。急に空が暗くなったかと思うと雷鳴が轟き始めました。義興の騙し討ちに協力した船頭は、急いで舟を戻そうとしましたが・・・濁流に呑まれて沈み、溺れて死にました。
一方、これを聞いた遠江守は、別の場所から多摩川を渡ろうと移動し始めました。その移動中にすぐそばに落雷したそうです。この時落馬した遠江守は館へ運ばれましたが発狂し、一週間後に果てました。
江戸遠江守が雷神・新田義興から逃れようと転げ込んだのが、鵜木氏の館だとされています。この事を聞いた国清は、雷神と化した義興の霊を鎮めるために新田神社を建てたそうです。江戸時代に浄瑠璃で義興の話が流行ると、新田神社は矢のアイテムで大儲けしたのだとか。これが破魔矢の始まりだそうです。
すっかり話がそれました。肝心の鵜木氏ですが・・・わかりませんwww
所在地:東京都大田区鵜の木1丁目(光明寺)
東京都の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント