2019/01/23
村所城/宮崎県西米良村
村所城は別名・米良城とも呼ばれた、米良氏の本拠でした。訪問日は2018年12月31日です。

役場の西に村所城、東に新城がありました。
村所城が居館、新城が詰城だったと考えられています。
まずは居館の方から。
役場の先で左に入ると、正面が土の壁となる所に行き着きます。
この上が村所城跡です。

役場の方を振り返ると、入口が堀で隔てられた感じに見えます。
たぶん、ここから城域だったと思います。

土の壁を斜めに上がると、数件の家が台地上にあります。

畑が段々になっていて、その1つ1つが曲輪に見えます。

道を進むと、特に高い所に行き着きます。
いかにも、ここが主郭のように見えます。

一番高い所は、かなり大きな平坦地です。
その東端に、ちょこんと高い所があります。
西米良村の街並みを見渡せる位置に、物見台があります。
続いて新城です。

新城へはここから登ります。
入口からちょっと不安ですが、車で登れます。

登れるのですが、かなり登ります。
登っている内に「あれ?まだ?通り過ぎた?」と不安になります。
ちょっと現在地確認しようかと思った所で、新城公園の案内登場

道端をブルドーザーでガーっとやったような、強引な駐車場があります。

ここから、何となく高みを目指して登ります。
道らしい道が無く、とりあえず平坦な所を進みました。
登って下りたのでわかりますが、中央上に虎口が見えてます。

下の平坦な所を何気なしに奥へ進むと、階段があります。
迷える城キチは、蜘蛛の糸にすがるように階段を上がりました。

すると、上にある何かの施設に行き当たりました。
この施設は、東側の2段目の細長い平坦地にあります。

一番高い所から見た何かの施設です。
UFO基地ではなさそうですが、曲輪を1つ潰しています。

この一番高い所が主郭です。
東端には土塁の一部が残っています。

西端から主郭全体を見たところです。
先ほどの土塁が木々に隠れて見えません


主郭西端からは、1つ下の曲輪が見えます。

1つ下の曲輪から主郭を見上げた所です。
下から見ると左側がちょっと高く、右側が下の曲輪の段です。
こうして見ると、左側は元は土塁だったのかもしれません。

この曲輪からも、下にもう一段の曲輪が見えます。

2段目の曲輪の北側に、左へ曲がるような通路があります。
たぶん虎口の跡と思われます。
ここから下りました。

3段目の曲輪からは、下に大きな堀切が見えます


下りてみると、最初に通った平坦面です。
来た時に、確かにボロボロのトイレありました。
実は、この裏が先ほどの堀切です。

堀切の断面は岩がゴツゴツしています。
掘るの大変だったろうなぁ・・・
この先(主郭の西、写真右側)は、細尾根状の自然地形が続きます。
◆歴史◆
米良氏の本拠地でした。
米良氏は菊池氏の内紛で逃れた、嫡流の子孫の家系です。
1501年に戦火を逃れて来た初代・米良重次の居城は銀鏡城でした。
家督は嫡男の米良重種が継ぎ、次男の米良重治が米良村に来ました。
3代目は次男なので、村所城はこの時に築かれたと思われます。
米良氏は伊東氏・相良氏に協力することで、勢力を拡大しました。
1559年、米良氏の本拠となりました。
2代目の米良重種が1559年に没し、弟の米良重治が家督を継ぎました。
米良重治は米良城(=村所城)を居城とし、ここが本拠地となりました。
1574年、当主が暗殺されました。
1573年に米良重治が没し、米良重鑑が家督を継ぎました。
弟達とは不仲で、米良を三人兄弟で分けるよう要求されました。
実はこれ、家臣による謀反の企みだったそうですが・・・
狭い米良を分割せず、肥後に新たな領地を得ようと出陣しました。
その道すがら、悪い家臣に待ち伏せされ、矢で射殺されました。
島津軍が日向に侵攻し、多くの伊東家臣が寝返った時期です。
米良家では、須木地頭の米良重方が1572年に木崎原の戦で討死。
兄の跡を継いだ米良矩重が、理由も無く領地を没収されていました。
島津家に鞍替えするか、激論が絶えなかったものと思われます。
家督を継いだ弟・米良重良は、伊東義祐に味方しました。
伊東義祐が山中を辿って豊後を目指した時は、島津兵から守りました。
豊臣秀吉の九州征伐の際、米良重良に代わり弟・米良重秀が出陣。
領地を安堵され、米良家は存続しました。
米良重秀は高橋元種との領地争いでも活躍。
大坂城に赴いて豊臣秀吉に直談判し、米良領を守っています。
江戸時代に本拠を小川城に移しました。
関ヶ原の戦で東軍に味方し、交代寄合として存続しました。
四年に一回参勤交代をする大名扱いだそうですが・・・
米良領は人吉藩の相良家の領地扱いだったようです。
江戸時代に小川城に居城を移しましたが、その時期は不明確です。
米良重良の子・重隆の代の説と、その孫・則重の代の説があります。
所在地:宮崎県児湯郡西米良村村所 GPSログダウンロードページ
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