2019/01/22
銀鏡城/宮崎県西都市
銀鏡城は、米良氏のはじめの居城とされます。訪問日は2018年12月31日です。

銀鏡は「しろみ」と読みます。
由来は神社の御神体である鏡なのだそうです。
城跡への目印はこの山の駅銀鏡です。
ここから歩きです。

山の駅の壁には、近隣の案内図があります。
その右の案内図がこちらです。
大まかには銀鏡城と銀鏡神社がメインのようです。

城跡周辺を拡大します。
この案内図では、橋を渡ってすぐ左へ。
下りて来たら、別の所から道に出るよう描かれています。
これ、現場でとてもヒントになりました。

城は川沿いにありました。
川側はごらんの通り、断崖です。
まさに天然の堀です。

橋を渡ってすぐ、左に入る道があります。
しかしこの道、竹の柵で通せんぼされています。
獣避けという感じでもなく、人の手でも開きません。
まさか、立入禁止?という表示もなし。
ちょい困惑です。

城跡の方を見ながら更に進むと、山に入っていく道ありました。
それがココです。

バリケード等は一切無く進むことが出来ます。
山に上がる道は、このように石垣が組まれています。

ここに「腹目石」があります。
案内図の①なので、こちらで合っているようです^^
この石を撫でると安産のご利益があるそうで・・・
撫でました(/ω\)

石垣の間の石段を上がると、かなり広い所に出ました。
奥には石垣で固められた坂道が見えます。
その前に、広場の真ん中に何かの案内表示があります。

近づいて見ると、銀鏡城と書かれていました。
この広い場所がお城の中心部だった、という事のようです。

階段を1回上がって終わりでは味気無いので、もうちょっと攻めました。
藪を掻き分け汗臭く!泥臭く!が染み付いて来たのでしょうか


幅の狭い細尾根状の石垣の真ん中に、祭壇っぽい所があります。
ここに例の案内表示。
近づいて見ると「米良初代、二代領主の墓所」と書かれていました。
「お邪魔してます!」と、手を合わせてご挨拶しました。

更に上がると、今度は曲輪の端っぽい石垣が現れました。
城だった時に積まれたものかどうかは?ですが・・・

上から見ると、少しずつ段になっています。
建物をここに建てるという感じの段ではない感じがします。

右手に広い平坦地の段を見つつ、道は更に上に続きます。

鳥居の手前まで上がると、かなり広い平坦地があります。
一番上は草が少ないですが、下の二段は草ボーボーです。

広い曲輪の脇を上がると、鳥居の間に案内表示が現れます。
これはモミの巨木の案内で、すぐ後ろの木がそれです。

階段を90度曲がって上がると、六所稲荷神社があります。
山自体はまだまだ先がありますが、道はここまで。
米良のお殿様は、ここで暮らしていたのでしょうか。
◆歴史◆
米良氏の初期の居城でした。
米良氏は菊池能運の嫡男・米良重次を祖とする一族です。
菊池能運は1501年、大叔父・宇土為光に敗れて肥後を出ました。
この時、隠すように妻子を米良の山中に送りました。
1503年、菊池能運は大敵・宇土為光を激戦の末に討ち取りました。
しかし、この時の戦傷により1504年、23歳の若さで世を去りました。
以後の菊池家は、一族が養子となり継ぎますが、弱体化しました。
菊池能運の幼子は、叔父の米良重房が中心となって盛り立てました。
銀鏡を拠点に周辺の集落を支配下に置き、次第に勢力を拡大しました。
子の代になると平野城、山陰城、紙屋城、穂北城を加えています。
某サイト様の系図では、三代目から米良城主と書かれています。
「米良城」は村所城の別名です。
城跡のお墓が初代と二代だったのは、そういう事なのかもしれません。
米良重次は1551年、55歳で没しています。
所在地:宮崎県西都市銀鏡 GPSログダウンロードページ
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