2019/01/19
平野城/宮崎県西都市
平野城は伊東四十八城の1つで、平野集落の南にありました。2018年12月31日の最後に訪ねた城跡です。

ここも誰も紹介したことがない城跡です。
位置はお馴染み『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書I』で特定。
事前にストビューでウロウロして、車はここに停めました。
ここは石尾バス停で、階段の上には小さな真新しい祠があります。
その裏は、私でも入れない程に竹が密生していました。

とりあえず外周を歩き回り、入り込める場所を探索。
南端から反時計回りに細い道を歩きました。
左側が城塁で、高さは5メートル程あります。
奥義を使えば難なく登れるとは思いましたが・・・
出来れば、虎口から往時のように城跡に入りたいと思いました。

そんな私をあざ笑うかのように城塁は高くなり・・・
北に進むと、その高さはおおよそ10メートルになりました。
下から見上げると、端っこは完全に垂直な崖です


道はどんどん東へ進み、このままだとどこへ行くのやら・・・
と思った時に、ヘアピンカーブがありました。
とりあえず、城跡方向に道が伸びています。

北へ北へと進む内に、道は少しずつ上がって行きました。
そのうちに右側にも土の壁が現れて・・・
これ、堀跡ですよね?


城と東側は堀で隔てられていると、某報告書に書かれていました。
どうやらこれがその堀跡のようです。
南九州らしい、とても鋭い角度の堀跡です。

堀跡を進み、再び地図に載っている道に出た所です。
台地上に出ましたが、道の所だけは3メートル程凹んだままです。
どうやらこの道も堀跡のようです。
平坦な台地上で、道を通すためにわざわざ掘る必要ないですもんね?

この辺りから城内を拝見したいと思いましたが・・・
こちら側はたぶん、奥へ進んでも何も見えなさそう。
歴戦を重ねた私にはわかります( ・´ー・`)
・・・誰にでもわかりますよねw

開けた方は畑になっていました。
こっち側なら何か見つかるかもしれない!と意気込んだのですが・・・
ここで城キチの天敵・放し飼いの犬っころ登場です。
ワンワン吠える獣に恐れおののき、この1枚だけで退散です。

再び道を進みます。
奥が低くなっているので、台地は東西に伸びているようです。
この道が細長い台地を分断しています。

堀底っぽい道を進むと、大きな道に出ました。
台地上に出るなら、普通この左のような道にしますよね!

大きな道は南北に通っています。
この大きな道も、周囲より低くなっています。

歩き回った北東の端に、平野バス停があります。
ここから北が平野の集落です。
この道も堀跡だとすると、かなり大きなお城だったようです

◆歴史◆
1533年、伊東祐安が落ち延びて来ました。
平野城でググって出てくるのは「伊東左兵衛佐」です。
「伊東左兵衛佐」でググると「加賀守」が間に入って出てきます。
この伊東加賀守の父親が伊東武蔵守。
1533年に起きた戦に登場する伊東武蔵守が伊東祐武です。
じゃぁとその子・伊東祐安をググったら、官職名が加賀守でした。
ずいぶんと遠回りさせられました

伊東祐武は1533年、伊東宗家の家督を継ごうとした人物です。
しかし、家督争いに敗れて自害しました。
子である伊東左兵衛佐は、山裏一揆を率いて参戦したものの敗北。
そして逃げ込んだのが平野城だったという事です。
この家督争いに勝利して家督を継いだのが伊東義祐です。
伊東祐安は許され、1572年の木崎原の戦で戦死しています。
天文年間の城主は米良民部少輔でした。
平野「領主」として『日向記』に登場するのみです。
どのような人物だったのかは?です

1578年、伊東旧臣軍に攻められました。
伊東義祐が豊後へ逃れ、大友宗麟が日向奪還の兵を挙げました。
これに先駆け、長倉祐政が伊東旧臣を集めて石ノ城を占拠しました。
伊東旧臣軍は都於郡奪還を目指し、周辺の島津方の城を攻めました。
この時に八代城、本城(本庄?)、綾城とともに平野城も焼かれています。
伊東旧臣軍はその後、作戦のミスで島津軍に大敗。
三納城に籠城しましたがおびき出され、島津軍に殲滅されました。
その後の平野城についてはわかりません

所在地:宮崎県西都市平郡
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