2019/01/17
三納城/宮崎県西都市
三納城は伊東四十八城の1つで、伊東旧臣が立て籠もった城です。訪問日は2018年12月31日です。

三納城は南側の大きな平坦地と山上の主郭から成ります。
南側の平坦地に上がる道が、こんな感じにクネっています。
これ、絶対に虎口ですよね?


南側の大きな平坦地は「平城」と呼ばれています。
平城部分は普通に住宅街になっています。
ちょっと、まばらですけど・・・
言われなければ、ここが城跡だとは感じられないレベルです。

一番奥まで進むと、この石碑があります。
入口とは言いますが、平城の一番奥ですw
左側の窪みも虎口のようで、道があります。

少し進むと、正面に壁のような城塁が現れます。
高さは7、8メートル程あります。

ここで左側を見ると、こんなに大きな堀があります


右側を見ると、主郭へと続く道があります。
この狭い切通し、たぶん往時からあった門の跡のように見えます。

ここから先は特に遮る物も無く、あっさりした道が続きます。

登り切った所です。
虎口があったと思われますが、かなり崩されてしまったようです。
入りにくくするような雰囲気があまり感じられません。

虎口跡から見た主郭です。
真ん中に祠があり、その脇に土塁が見えます。

上の写真の左枠外に、城跡の案内図があります。
落ち葉が積もっていたようで、泥で汚れて見えず。
ちょっとこれはパクれません


近くには、城址碑に標柱、説明板×2と、かなり気合が入っています。
・・・気合が入っていた、と言うべきでしょうか。
どれもかなり年季が入っています。

虎口の反対側(城址碑などがある所)から見た主郭内部です。
手前三分の一程の所で段差になっています。
右端には土塁もあり、木の陰に祠があります。

大きな平城から坂道を登って広い主郭に。
色々なモニュメントもあると、ここで見学を終える方もいるかと。
でも、主郭の一番奥に、こんな秘密めいた道がコッソリあります。
城キチなら、こういう所こそ攻めてみるべきポイントです。

隠し通路的な所を下りた所に、1つ目の堀切があります


ここで振り返ると、主郭の城塁が壁のように聳えます。
一見すると、ここを上がれそうには見えません。
やっぱりここは秘密の通路だったようです。
表の正々堂々とした立派な道とは対照的です。


細い稜線っぽい道を進むと、いくつも堀切があります。
北側は土橋のような一本道が続いています。
こちら側からの侵入にも備えていたようです。
◆歴史◆
1577年まで飯田肥前守が城主でした。
築城時期は不明ですが、飯田肥前守が城主でした。
飯田肥前守は伊東家中では名のある武将で、槍の名手でした。
島津家側の記録では、1572年の木崎原の戦で討ち取られています。
しかし、1577年にも島津軍に捕えられています。
なので、親子2代で同じ名を名乗ったのでは?とする説があります。
この時「せっかくの槍も主がいなければな~」とイジられました。
愚弄する家臣を、島津義久がたしなめたという逸話があります。
1578年、伊東旧臣が籠城しました。
豊後に逃れた伊東義祐は、大友義鎮に日向への出兵を打診。
大友義鎮は家臣団の猛反対を押し切り、日向へ出兵しました。
これに先立ち、長倉祐政が石ノ城を拠点に伊東旧臣を糾合。
石ノ城に立て籠もって島津軍の攻撃に耐えました。
長倉祐政は伊東旧臣達に策を授け、都於郡城奪還を目論見ました。
しかし、合図を間違えて大敗し、三納城に立て籠もりました。
島津軍は三納城を包囲したものの、攻めあぐねました。
そこで、わざと包囲を解いて伊東軍をおびき出し殲滅しました。
佐土原藩の城となりました。
三納城は廃城とならず、その後も島津家の城として使われたようです。
現地の説明板では佐土原藩の外城となり、1615年廃城と書かれています。
島津家の城となってからの城主は不明です。
所在地:宮崎県西都市三納 GPSログダウンロードページ
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