2019/01/15
雄八重城/宮崎県西都市
雄八重城はかなり山奥にあった伊東四十八城の1つです。訪問日は2018年12月31日です。

伊東四十八城で一番苦労したのがここ、雄八重城でした。
かなり山奥にあり、一番近い城跡からでも1時間程かかりました。
しかも、近くに車を停められる場所は全く無し。
探しに探して、尾八重神社前にようやく車を停めました。
実はこの神社、時の城主・黒木吉英が1511年に創建したものです。
詳しくは歴史の所で紹介します。

ようやく辿り着いたものの、位置は「なんとなく」レベル。
『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅰ』で大体わかりました。
その楕円で囲まれた範囲の左端がこの辺りです。
したがって、この景色は城跡全体を捉えているハズです。
道端には段々になった畑が続き、城キチには曲輪群に見えました。

城跡の手掛かりは「尾八重集落の背後の緩斜面端部」です。
上の写真では真ん中に民家が写っています。
したがって、城域はこの民家の背後の斜面という事になります。
その入口がここです。
正面左に見える建物は、地図では公民館となっています。
周りの民家と同じにしか見えませんでしたけど

勘違いだとアレなので、怖くて覗き込んではいません。

意を決して真正面の道を奥へ進むと、右側に石垣がありました。
某報告書によると、切岸の要所に近世に積まれた石垣があるとのこと。
その光景が、たぶんこれです。
道の右側には家は無く、おそらく畑跡であろう段々があります。
その切岸は、どこも石垣が積まれています。

奥まで入ってみると、ちょこちょこ段差があります。
文面と状況から、ここら一帯が城跡のようです。
誰も紹介していないので、こんな風にしか書けません


一番高さのあった切岸がココです。
集落背面の斜面にある、立派な切岸です

◆歴史◆
米良分左衛門が城主だった、とだけ紹介されています。
「雄八重城」でググると
・伊東四十八城の1つ
・米良分左衛門が城主だった
しか出てきません。
「米良分左衛門」だと何もヒットしません。
黒木氏の城でした。
わからない場合、近くの寺社でググりまくるのがなぽ流です。
尾八重神社でググると、色々と出てきました。
それらをまとめると・・・
・1395年、黒木重実が伊東祐堯の家臣となり、雄八重地頭となった
・1511年、黒木吉英が雄八重神社を創建した
・1577年、伊東義祐が豊後落ちの際、黒木家に一泊した
だいたいこんな感じです。
お城でググるよりも色々出てきました。
これらによると、永禄年間の城主は黒木氏という事になります。
1582年、米良重秀が攻め込み、黒木重常を滅ぼしました。
米良重秀は米良家当主・米良重良の弟です。
その米良重秀が1582年、黒木重常に無条件降伏を迫りました。
いきさつが???ですが・・・
黒木重常は米良重秀の脅しを突っぱねたため、戦となりました。
戦は米良軍優勢で推移し、黒木重常は甘露寺境内で自害。
米良重秀はその夜、黒木家の館で戦勝の宴を催しました。
そこへ黒木重常の嫡子、6歳の今王丸が懐刀を手に現れました。
はじめは笑って受け流していた米良重秀でしたが・・・
今王丸が何度も何度も切り掛かって来たため、やむなく斬りました。
米良重秀は今王丸を憐れみ、4歳の弟を大切に育てました。
この子が成人すると、自分の重臣として取り立てたそうです。
米良重秀が黒木重常を滅ぼした後、領内では災いが相次いだそうです。
そこで米良重秀は黒木重常と今王丸を雄八重神社に祀りました。
さらに、地名を「雄八重」から「尾八重」に変更。
敗れた地名は不吉だから、というのがその理由だそうです。
それでも災いはやまず、黒木重常の奥方を湯之片神社に祀りました。
さらに尾八重神社の大祭を「殿様がかり」としました。
この大祭の前段に、黒木父子と奥方の再会の儀が入るようになりました。
所在地:宮崎県西都市尾八重 GPSログダウンロードページ
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