2019/01/15
穂北城/宮崎県西都市
穂北城も伊東四十八城の1つで、城跡公園として整備されています。訪問日は2018年12月30日です。

駐車場の入口です。
角に木製の何かが倒れていますが・・・
下から覗き込んだら「穂北城跡」と書かれていました。
なんだかちょっと寂しくなります。

駐車場はちょっと迷いましたが、真正面に牛さん達がいます。
目印になればと思います。

さて、駐車場からそれっぽい方へ進むと、早速見えてきます。
いきなりですが、堀跡です


最初の堀底を抜けると、広い堀跡に出ます。
右手前が曲輪5で、奥が曲輪3です。
番号は下に載せた図のものです。
何気なく載せてますが、通路の端に土塁があり、向こう側が堀です。
見方によっては二重堀にも見えます。

広い堀を反時計回りに回り込むと、今度は狭く鋭い堀が現れます。
左側が曲輪3で、右側は曲輪じゃない所です。
倒木が堀に落ちていますが、数年は放置されている感じです。

そのまま曲輪3を回り込む感じで、堀底は更に左へ回り込みます。
今度は左側が曲輪3、右側が曲輪2です。
この堀底は、ちょっと上り坂になっています。

しばらく進むと、曲輪2へ上がる階段が現れます。
ここが本来の虎口なのかどうなのかが?ですが・・・

堀底のこの先はこんな感じなので、否応なく階段を上がります。

階段を上がると、かなり広い平地に出ました。
曲輪2ですが、奥に説明板が見えます。
扱い的には主郭?な感じです。

雨土で多少汚れてはいますが、文字はちゃんと読めます。
放置されて久しい感じですが、設置した時は気合十分だったようです。

拡大表示(リンク先の画像は赤線無しです)
上の説明板に載っている図です。
これまで歩いて来たルートを示した赤い線を追加しています。
さすが名のある城だけあって、まっすぐ進めないようになっています。

曲輪2はかなり広いですが、端に土塁なども見当たらず。
奥は断崖になっていて、見晴らしがとても良いです。
今居る所が「曲輪2」なので、「曲輪1」が気になりますよね?
曲輪1側にあるのがこの堀ですが、細い竹が密生していて見えません。
曲輪2の曲輪1側はずっとこんな感じで、とても行ける感じがしません。

大きな曲輪は沢山ありますが、ちゃんと見ることが出来たのは1つだけ。
そんなモヤモヤが心の片隅に大きく引っ掛かります。
もうここは見納めかと、曲輪2に入った階段を下ります。
そして、堀の奥を見た瞬間、例の黒いヤツがぼそっと呟きました。
「これ位なら行けるんじゃね?」

ということで、竹の密生する堀底を進みました。
曲輪2の前の堀底は、突き当りまで進めました。
そこで堀は右へ曲がっています。
堀底から曲輪2を見上げるとこんな風に見えました。
上から見るのと下から見るのとでは、かなり違います。
まだまだ奥へ行ける気がしてきました( ̄▽ ̄)v

事前に曲輪2と1の間が二重堀であることを知っていました。
真ん中の土塁に登って曲輪1側を見ると、かなり深い堀がありました

曲輪2側の深さは2メートル程ですが、曲輪1側は倍以上ありそうでした。

堀と堀の間の土塁に上がり、両側が堀だというのを撮ったのですが・・・
竹が密生していたのと腕が残念なのとで、左側の堀を表現出来ず。
結局、曲輪1側の堀底には下りることが出来ず。
曲輪2側の浅い堀底も、竹の密度がさらに上がって進めなくなりました。
ちゃんと整備された城跡ですが、ちゃんと藪攻めも楽しめます

◆歴史◆
城主は長倉洞雲斎でした。
永禄年間(1558~70年の間)から、城主は長倉洞雲斎でした。
1577年、伊東義祐が島津軍の侵攻を受け、豊後へ落ち延びました。
その際、海側は元家臣の財部城主・落合兼朝により封鎖されました。
落合兼朝は、一行が通行する条件として伊東帰雲斎の引き渡しを要求。
伊東義祐はこれを拒否したため、九州山地を通って落ち延びました。
この時に穂北城に立ち寄り、長倉洞雲斎が手厚くもてなしています。
島津家臣・平田宗張が城主となりました。
伊東義祐が豊後へ落ち延びた後、長倉洞雲斎の動向は不明です。
おそらく島津軍に降伏したと思われます。
翌1578年、伊東旧臣が近くの三納城と石ノ城に立て籠もりました。
この時に穂北城にも島津軍の兵士が来たそうです。
そのため、この時までは長倉洞雲斎が城主だったと思われます。
伊東旧臣による籠城事件の後、島津軍が耳川の戦で大友軍に大勝。
おそらくこのタイミングで城主が交代したと思われます。
新しい城主は、島津家臣の平田宗張です。
1587年の九州征伐後、穂北城は引き続き島津家の城でした。
佐土原藩の城として続きましたが、1615年に廃城となりました。
所在地:宮崎県西都市穂北 GPSログダウンロードページ
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