2019/01/11
石ノ城/宮崎県木城町
石ノ城は新納石城とも呼ばれた伊東四十八城の1つです。訪問日は2018年12月30日です。

石ノ城は魚の尻尾みたいな形をしており、西側だけが陸続きです。
ここは南側で、ダムが右側に映っています。
この城を攻めた島津軍は、川に大木を投げ込んで渡ったそうです。

今度は陸続きの西側から攻め込みます。
一番付け根の所で、城跡へは左の道を進みます。

ここの左右の脇が、堀切状になっています。
西側に「堀切の名残」があるそうですが、場所がわからず。
ここで合ってますでしょうか?

城跡への道はこの1本。

車道の脇に、細長い地形が続きます。
この上をずっと歩きましたが、溝が1本通っていました。
この溝は昔からあったのか、近代に掘られたのかも?です


途中で道が右から左へ移る所があります。
切通になっていますが、堀切っぽくも見えます。
西側の堀切は大きかったそうですが、ここでしょうか?
誰もちゃんと紹介してないので、どこもかしこもそう見えます


もうすぐ城跡です。
右側の細くて高い何かも、車の所で同じ高さまで下りてきます。

尻尾の付け根部分は狭いですが、この先は平らになります。
その入口に「日向新しき村」の石碑が建っています。

新しき村の入口には、何だかわからない窪みがあります。
池の跡でしょうか?

内部は広大な平地です。
歩いていても、全く城跡という雰囲気はありません。
とりあえずグルっと一周しようと、奥まで進みました。
一番奥まで進むと、イヌっころが駆け寄って来ました。
じゃれに来たのかな~♡?なんて思っていたら・・・
30メートル程先で立ち止まり「グルゥゥゥゥ」と低い唸り声。
これ以上進むのは危険だと思い、車に戻りました。
100メートル程戻った所で振り返ると、御イヌ様も帰還中でした。
しかし、私が立ち止まったのに気づいたようで、御イヌ様Uターン。
やべぇやべぇと車へ戻りました。
動物の感覚って凄いですね

◆歴史◆
永禄年間(1558~70年の間)の城主は長友源次郎でした。
築城時期は不明です。
長友源次郎についても何もわからず。
長友姓は宮崎県に多い苗字なのだと、苗字由来のサイト様で見ました。
大昔は「大伴」で、天皇の名前を憚って「中伴」に変更。
その後、転訛して「長友」になった、らしいです。
1578年、島津軍に攻められ開城しました。
1577年、伊東義祐は島津軍に追われ、豊後へ落ち延びました。
1578年、豊後の大友宗麟は、家臣団の反対を押し切り日向に出兵しました。
これに先立ち、3月に伊東家臣・長倉祐政が石ノ城に立て籠もりました。
7月に島津軍が7000人で攻めましたが、伊東軍が守り切りました。
9月にも島津軍が1万人で攻め、10日程耐えましたが開城しました。
島津軍は伊東軍の奮闘を称え、酒や食糧を贈ったそうです。
この時に城を守った長友祐政は、翌月の耳川の戦にも参戦しました。
しかし島津軍に大敗したため、次男と共に自害しました。
1918年、武者小路実篤が新しき村を作りました。
ここで6年間暮らしながら、文筆活動をしていたそうです。
新しき村は、自活しながら高みを目指すような感じの所のようです。
よくわかりませんが・・・
1938年にダムで一部水没することとなり、村が群馬に移転しました。
それでも一部の方が残り、今でもここで暮らしているそうです。
所在地:宮崎県児湯郡木城町石河内
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