2019/01/05
八代城/宮崎県国富町
八代城は尾根に築かれた城で、伊東四十八城の1つでした。訪問日は2018年12月29日です。

よく紹介されている、八代小学校前の案内です。
事前に調べた時、ここから先で苦労しました。
というのも、紹介しているサイト様自体が少ないのですが・・・
場所が間違っているサイト様もあったので


次に現れる案内は、登城口にあります。
小学校からは直進→右の脇道の順に進みます。
この脇道に入る所に案内がありません。
あとは車を停める所ですが・・・
うまく探して下さい、としか書きようがありません。

登城路はしっかり整備されています。
道端から登城路に入ると、間もなくこの階段にぶち当たります。
私は階段は苦手ですが、ココはこの見えている所だけです。

階段を登り切ると、そこに説明板があります。
登城口からここまでの所要時間は2分です


曲輪はかなり細長いですが、広さは十分。
かなり大規模なお城だったと思われます。

説明板に加えて石碑まであり、ここが本丸と思われます。
石碑は説明文も彫られた古いタイプのものです。
碑文の最後に「昭和十年四月」とあります。
昭和は、あと半年もすると2つ前の元号になるんですね


位置も雰囲気もバッチリな石碑でも、彫られた文字が違うことがあります。
恐る恐るタイトル部分を見ると「伊東祐廣公〇忠碑」とありました。
〇の所がどうしても読めませんが、ごんべんに何かだと思います。
わかる方は、その場で挙手お願いします(*'▽')ノ

さて、ここが本丸だとすると、その東側が中の城という事に。
で、そちら側を見ると、何者の侵入も許さない鉄壁のガードが

「お前、藪平気だろ?」って、そんな事ありませんから


説明板では本丸30a、二の丸10a、三の丸10a、取添35aと続くそうです。
しかし、本丸の東は猛烈な藪で、西側はそのまま登城路を下りるだけ。
二の丸から先はどこなんだ?という目線で階段を下りました
そう思いながらでないと、見えない道ってあるもんです。
階段を下り切った所で、右上に上がる道?見えちゃいました


道としては全く整備されていませんが、細尾根を歩いた跡があります。
根拠のない自信に満ち溢れて登り切った所がココです。
奥がちょっと広くなっていますヾ(*´∀`*)ノ

そのまま細長い平坦地を進むと、土の壁に行き当たりました。

その足元は、こんな感じの堀切です


堀切を斜めに登り、振り返った所です。
先ほどの平坦地もどうやら曲輪のようです。
本丸の次なので、二の丸でしょうか?

堀切の上は、笹がやや茂っているものの、歩くのに支障はありません。
しかし、想定外に広く、本丸と同じ位ありました。
二の丸、三の丸はどうなっちゃうのでしょうか?w

この広い曲輪の一番奥まで進むと、向こう側に畑が見えました。
さすがに真っ平に馴らされています。

その手前には、かなり大きな堀が横たわっています。
写真奥は、そのまま斜面を竪堀となって落ちて行きます。
この畑が35aの取添で、三の丸が30aなら辻褄が合うのですが・・・
どうなんでしょうか?



『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅱ』では曲輪は4つです。
(無料でPDFをダウンロードできます

これは『日向地誌』を参照しており、三の丸の記述がありません。
そういう事なんでしょうか?
◆歴史◆
伊東祐広の城でした。
伊東祐広は鎌倉時代末から南北朝時代にかけての人物です。
南朝に味方して、北朝方の土持宣栄と戦いました。
ということは、鎌倉時代に下向した伊東氏の庶流ですね。
伊東祐広は1335年12月、北朝方の穆佐城を攻め落としました。
穆佐城はすぐに土持宣栄に奪還され、さらに八代城も攻められました。
伊東祐広は猪ノ見城へ退却し、この時は土持宣栄を撃退しています。
1336年、土持宣栄は再び猪ノ見城を攻撃。
今度は落城し、伊東祐広は戦死しています。
伊東祐広をググると、「木脇伊東祐広」という名前が出てきました。
木脇城の木脇氏は、南北朝時代は北朝方なので矛盾しそうですが・・・
木脇家中が北朝方の出現で動揺し、分裂したという事でしょうか。
北朝方の畠山直顕や伊東祐持は、突然日向に来た人物です。
それまで土持氏と戦って来た伊東一族は、味方と思ったに違いありません。
しかし、畠山直顕も伊東祐持も、土持氏の味方となりました。
後から来た伊東宗家は、旧来からの伊東一族の敵となったのです。
木脇城の木脇氏はその中で、伊東宗家に娘を嫁がせています。
相当な葛藤があったものと思われます。
次に名前の出てくる伊東新三郎もわからず。
そうやってググってたら、伊東氏の系図見つけました。
それによると、木脇城主・木脇祐頼の子が伊東祐広。
伊東祐広は八代城で南朝方として活動しています。
そして、その子が伊東祐氏。
伊東祐氏が「守永殿」でした。
そして、1400年代初頭に木脇氏は絶え、宗家からの養子が継ぎます。
つながりましたヾ(*´∀`*)ノ
伊東祐安が一時居城としました。
八代氏が従わなかったため、伊東祐安が八代氏を追い出しました。
八代氏は伊東一族と書かれていますが、それ以上はわからず

状況的に、古くから八代に居た守木脇氏庶流のような気がします。
八代氏を追い出した伊東祐安は、一時自らの居城としたそうです。
時期はわかりませんが、西暦1400年前後の人物です。
伊東祐安は、穆佐城主の島津久豊と和睦した伊東家当主です。
それまでは島津家と争っていましたが、娘を嫁がせました。
島津久豊はこれが元で、兄・島津元久と争うこととなります。
伊東祐安は、後顧の憂いを絶つ事で日向国内の引き締めに専念出来ました。
永禄の頃は伊東新三郎が城主でした。
伊東新三郎は「隠岐守」とか「新助」とも書かれています。
ググってもわからず。
「伊東隠岐守の子」というのも出てきました。
その「伊東隠岐守」がわからないのに・・・
1577年、島津家の城となりました。
島津軍が伊東義祐を日向から追い、島津家の城となりました。
八代城は島津家臣の相良新介長広が城主となりました。
相良長広も直接的にはわからず。
ググって出てきたのは、鎌田政年の三男・相良長継です。
鎌田政年の正室の弟・相良長信が病弱なため、相良家の養子となりました。
具体的には相良長信の父・相良長秀の養嗣子となりました。
しかしその後、相良長信に嫡子が出来たため、その弟格となっています。
この相良長継が生まれたのが1576年です。
文脈からすると、相良長広が生まれたのはこれより後ですね。
なので、都於郡に入った鎌田家の持ち城の名目上の城主だと思います。
廃城時期は不明確ですが、高岡郷設立の1600年頃とされます。
所在地:宮崎県東諸県郡国富町八代南俣 GPSログダウンロードページ
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