2019/01/05
鎌田ヶ城/宮崎県国富町
鎌田ヶ城は鎌田城とも記され、伊東四十八城の1つとされています。訪問日は2018年12月29日です。

城跡は本庄中学校の敷地であるとされています。
冬休みなので、割と気兼ねなく正門からの写真を撮れました。

城跡は平坦に馴らされた土地なので、学校があることが多いです。

かつて北側に台地と城を隔てる空堀があったとされます。
航空写真を見て西側と北側にそれっぽい印象を持ちました。
それで現地を見てきたのですが・・・
西側は、単に住宅が綺麗にまっすぐ並んでいるだけで、地面の凹凸は無し。
北側はココなのですが、うどん屋さんの左脇の道からちょっと見えます。
堀跡のように窪んで見えますが、ここから先は立入りNG。
たぶん、ここが堀跡なんだろうと思いました。
「鎌田ヶ城」は「鎌田城」と表記されることもあります。
私は『日本城郭体系』を参照したので、その表記に合わせています。
基本的に表記があれば合わせるのですが、ここは何もありません。
どの文献やサイト様でも「本庄城に比定されている」とあります。
地名が本庄なので「本庄城」でいいような気がしますが・・・
「鎌田」の由来がわかりません。
文脈的に「本庄城」→「鎌田ヶ城」と変遷したという事でしょうか?
島津家重臣の鎌田氏に由来するのかもしれません。
(1577年に鎌田政近が都於郡城に入りました)
関連は???ですけど

◆歴史◆
永禄年間(1558~70年の間)頃は川崎兵部丞が城主でした。
河崎兵部丞とも表記されますが、どのような人物だったのか?です

1577年、島津家の城となりました。
島津義久が伊東義祐を攻め、大名の伊東家は一度滅びました。
日向は島津家の城となりましたが、ココの城主は不明です。
1587年、高橋元種の城となりました。
豊臣秀吉の九州征伐により、この辺りは高橋元種の領地となりました。
高橋元種は延岡藩当主で、飛び地扱いでした。
1615年、廃城となりました。
某大聖典ではそのように書かれていますが・・・
伊東崩れ以降、城があったのかすら?です。
所在地:宮崎県東諸県郡国富町本庄(本庄中学校)
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